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10、別行動

分けるのがめんどっちだった('Д')

 次の日、浩一が作った夕飯も無事に食べ終えることができた進は、一見していつもと変わらない程度には回復した。ただ若干の貧血のような体調の悪さは何ともしようがない。使い魔を出すと多少の貧血が起こってしまうのでこれは予定通りと言うべきだった。


「よお!」

「ふああ……くそ、朝から動くのは辛い……」

「おい、もう十時は過ぎてるんだぞ」

「俺には早すぎだ」


 探偵事務所にやってきた浩二と瞳を、今日は最初から起きて待っていた浩一は大きな欠伸をしていた。上は濃い藍色のシャツに青のカーディガン、下は黒のパンツといういでたちの浩一。少々大人びた服装だが、この年頃の少年が着ていてもそこまでは違和感のない、そして彼がぎりぎり及第点を出せるコーディネートだった。

 仕事にはスーツを着ていたい浩一だが、浩二と聞き込みをするさい逆にそれでは奇異とうつることがある。


「五十嵐刑事、おはようございます」


 浩二の後ろに立っている瞳に挨拶をしながら、進は事務所に入ってきた。手には野球帽を持っている。


「はい、これ」

「うお」


 ぽたんと浩一の頭にその野球帽をかぶせる進。彼の美的センスにはそぐわないがしかしこれの有効性を知っているだけに文句はいえない。

 強すぎる日光は浩一にとってある種の毒になりえるからだ。

 今日の様な曇り空ならそれほど心配しなくてもよいが、しかし油断はできない。ゆえにただ無言で進を睨み付けるにとどめる。

 それを鼻で笑いながら進はポケットから車のキーを取り出した。


「じゃあ五十嵐刑事、今日はよろしくお願いします」

「あ、はい!」


 事前に今日は別行動をすることを告げられていたので進の言葉によどみなく彼女は答えた。少々緊張している彼女に微笑みかけながら、進は自身のデスクからいくつか荷物を手に取ってカバンに入れた。

 その様子をちらりと見た浩一は、シャツのポケットを探ってそこから小さな小瓶を取り出した。そしてそれを進に投げる浩一。それを危なげなく受け取ると進は少し顔を顰めた。


「なんかあったら使え」

「何かあることが前提かよ」

「ないとでも?」


 不穏な会話だ。思わず浩一にじゃれていた浩二も押し黙る。にんまりと笑って浩一は三人を見渡す。


「俺が動くってことは、そう言うことだ。分かってるだろう?」


 思わず瞳は一歩後ろに下がってしまう。本能的な恐怖を誘うその気配。慣れた二人は顔を顰めるだけだが、初めて目にした瞳は思わず動いてしまった。

 それを見て浩一は目を伏せる。すると瞳を恐怖させた気配は霧散した。


「とりあえず五十嵐刑事」

「は、はい!」

「進のそばをあまり離れないように。まあ、刑事には危害はくわえないとは思うけど、女の人がけがをするのはよくないからね」


 にっこりと笑って浩一は言う。それに瞳は深く息を吐いて答えた。


「月原さん、それセクハラですよ」

「あははは、ごめんごめん! けどまあ。俺の忠告は忘れないでね。浩二は慣れてるけど、この手の事件は初めてでしょう?」


 確かにその通りだった。苦笑を浮かべて瞳を見る浩一の視線は柔らかなのに、どこか冷たさを感じた。彼女は思わずうなずく。


「アクアマリン症候群の患者が関わる事件は何が起こるか分からない。そもそも、本人に自覚がないことだってある」

「はい」

「……力づくで止めることもあるし、本当に殺す寸前まで叩きのめす必要性がでることもある」


 思わず瞳は押し黙った。日本では他の国に比べて銃器の取り扱いに厳しい制限が付いていることが多い。防弾チョッキを着なければならないような外国とは事情が違う。

 犯人が死ぬということも、刑事が殉職すると言うことも少ない。故に浩一の言葉は重かった。暗に死の危険を彼女に教えている。


「それでも来るかい?」

「行きます」


 けれど彼女の答は変わらない。


「刑事ですから」

「……ふうん」


 瞳の答に口端を上げて薄く笑う浩一。幾分皮肉っぽい表情だが、なぜかそれはどんな笑顔より温かみを感じさせるものだった。


「よし、ならでるか!」


 浩二の溌剌とした声に妙に緊張していた心がずいぶん軽くなることに気が付いた。いつものように優しい笑顔を浮かべる浩二。そして探偵とその助手もつられたように笑みを浮かべる。

 浩二と浩一の兄弟は浩二が運転してきた覆面パトカーに、進と瞳は探偵事務所が所有する車に乗り込んでそれぞれ目的地に向かった。


「月原探偵って、ちょっと怖いですね」

「うーん、そうだね」


 進の運転する車の中で瞳はぽつりと言った。彼女の言葉に進は眉を下げてほんの少し困った表情をした。ただ瞳の言葉に込められた感情は恐怖だけではないことに気が付いていたのであえて積極的な否定はしない。

 事実、進は浩一が怖い。そして浩二もたぶん浩一を恐れている。それはどうしようもない原始的な恐怖に由来している。もしかしたら浩二は進のことも恐れているのかもしれない。

 ただ彼はそれを表に出さない。いや、茶化すようにしてその恐怖を口に出すこともあるが、しかしそれだけだ。


「五十嵐刑事は能力者にあったことはあったの?」

「いいえ。……あ、違う。確か刑事課長の諏訪部警視が」

「あ、そっか。彼と会ったことあったんだ」


 そうかそかと頷きながら、進は瞳にどう説明するかと悩むようにしばし黙った。


「普通の人と、変わらないでしょう」

「はい」

「そう、あのね。アクアマリン症候群の患者はただ多少変わった力があるだけの人間だ。それは分かってるよね」

「分かってます」


 能力者だから他の人間と比べて優れている、劣っているということはない。人によってはその能力によって肉体的に何かしらの優れた点、たとえばずば抜けた跳躍力、並外れた記憶力、と言ったことはある。

 だが力があるからと言って精神的に優れているかと言えばそうではない。なんら普通の人間と変わらない。

 それは瞳が浩二から一番初めに聞かされたことだった。そして世間の公の場で繰り返し教えられることでもある。


「けれどね、浩一たち『探偵』は違う。あまりにも、彼らは、いや僕らは人の枠からはみ出してしまった」

「……」

「五十嵐刑事、今まで僕の捜査方法を見てどう思った?」


 唐突な問いに瞳は慌てることなく答えた。今までと言っても昨日、その前のものしか進の捜査方法は見ていない。だがそれだけでも十分わかることはあった。


「基本的な捜査方法は私たちと変わらないと感じました。ただ使える道具は私たちより多い、違いはそこだと思います」


 進は前を向いたまま微笑をした。信号で止まる彼は顎をハンドルに乗せてちらりと瞳を見る。


「的確だね。よく見ている」

「ありがとうございます」 


 信号が青になった。体を起こし、前を向く。緩やかな加速。そこには熟練さを感じた。見た目は二十歳を少し過ぎたほどの進だが、瞳が彼もまた四十を超えていたことを思いだした。

 だからこうして褒められても同世代に褒められるような反発を覚えない。浩二やほかの年上の刑事から褒められ時と同じような感覚を持った。


「そう、僕たち探偵助手と探偵は道具が多い」


 ぺろりと進は唇を舐めた。


「それに違和感を覚えない?」

「え?」


 彼の次の質問は難しかった。道具が多いことに対しては、それは認定能力者だからだと思っていた。だが違うのだろうかと考える。

 あるいはほかの認定能力者と何か違う部分があるのか。しかし瞳が知るアクアマリン症候群の患者は諏訪部警視だけだ。しかも彼が自分の能力を見たわけではない。それゆえに他の認定能力者と比較することができない。

 それを察して進は苦笑した。意地の悪い質問だった今更思う。


「うーん、そうだね。五十嵐刑事にはまだわからない質問だったな」

「はあ……」


 何となくむっとして瞳は険のある声をだしてしまった。だがそれも無意識の事であったらしく、少し申し訳なさそうな表情をした。進はくすりと笑った。


「五十嵐刑事の能力を見くびっているわけじゃないんだ。ただ貴女はまだ知らないことが多い。そしてそれは決して五十嵐刑事が悪いんじゃない」


 片手で頬を掻きながら、進は首を振った。


「どちらかと言えば、僕たちのせいかな」


 ぽつりとつぶやかれた一言。物悲しげな彼の表情に思わず瞳は押し黙った。


「けどまあ……」


 深く息を吐いて進は笑みを浮かべた。少し無理をしているようにも見える。だからこそなのだろう、進はことさら明るく言った。


「五十嵐刑事には色々これから覚えてもらうからね」

「……はい」


 瞳は進の言葉に込められている期待に気が付いた。期待されて嬉しくないわけではない。それはたぶん浩二に連れられ『探偵』たちに引き合わされた時から感じていたものだ。期待と不安。新しい世界を見る期待と、その世界に対する不安。

 そしてそれは進たちも同じなのだ。いやもしかしたら瞳よりその不安や期待は大きいのかもしれない。だからこそ彼女はその期待に応えたかった。


 約束は一時だったが、昼食を外で取ったにしても早くつきすぎた進と瞳。だが進は最初からその予定だったらしい。とりあえず富山家の屋敷のそばに車をとめると、進は屋敷の一番端に足を進めた。それを追い掛ける瞳。

 進は人がいないことを確認して小さなナイフで自分の人差し指の腹を少し傷つけた。ぷくりと血の玉が浮かび上がる。その血を屋敷の端に垂らした。


「何をされているんですか?」


 小声でそう瞳が問いかけたのは。正面側の端に進が血を垂らし終えてからだった。真剣な表情に口を挟めなかったのだ。

 こうして声をかえることができたのは、彼が困ったようにあたりを見渡したからである。


「えーと、なんていうか。結界、かな?」

「結界、ですか」

「そう。こうしておけば少なくとも動物は出入りできない。ところでさ」


 効果は分かったが、瞳にはそれがどう役に立つか分からなかった。だがそれを聞く前に進が彼女に問いかけた。


「この家の裏に回る道知ってる?」

「あ、はい。こっちです」


 少し先に進んだ先にある路地に案内した瞳。そして進を屋敷の反対側に連れる。こちらも正面と同じように木々と塀で囲われており、ここをよじ登る人間がいればすぐに目につくだろう。

 進は正面と同じように後ろの方も同じように血を垂らした。これで富山家の屋敷は進の血で四方を囲まれたことになる。


「これでよし、と」

「終わりですか?」

「いや、屋敷に入ってからしないといけないことがある。ただ外の作業はこれで終了。ちなみにこれ、僕の血を小瓶にいれて同じようにまいてもできるから」

「そうなんですか」


 進は先ほど来た路地ではなくそのまま足を進めてもう一本前にあった路地に入った。ちょうどマス目のように整備されているのに気がつたのだろう。こちらの方が正面に回るのなら近い。

 彼は瞳の方を見ずに言った。


「もしかしたらお願いすると気があるかもしれないけど、その時はよろしくね」

「え、え、うえーと、が、がんばります」


 血をまくという行為を考えて思わず瞳は声が裏返った。それを聞いて進はくすくすと笑った。思わず赤くなる瞳を流し見る進。

 その視線を受けて彼女は恨みがましい顔で受ける。


「ごめんごめん、さ。そろそろ行くよ」

「あ、はい!」


 気が付けば富山家の前だった。瞳がまずインターホンを押した。


『はい』


 中から琴美の声が聞こえた。少し疲れたような声に聞こえ瞳は心配そうに眉をひそめた。


「警視庁の五十嵐と」

「探偵助手の水月です」

『奥様とのお約束ですね、少々お待ちください。今門を開けます』


 その言葉通りかちりと中から音がして門の鍵が開いた。それを押し開け二人は屋敷の中道に足を踏み入れた。そして進は小さく手を叩く。


「水月さん?」

「ん? ああ、結界をはったんだよ」


 瞳の五感には何ら異常は感じられない。だが当の本人がそう言うのであればそうなのだろうと思った。まるでどこかティーン向けの小説のような言動が、彼がそうしたことを実際にできるのだと彼女は知っている。

 数日前までは考えもしなかった世界だ。アクアマリン症候群の患者の存在は知っていたが決し身近なものではない。それに彼らと進たちはまたどこかしら違う。というか違うらしい。浩一の能力を見ればそれもわかるのかもしれない。

 ぼんやりとそんなことを考えていた瞳に進は声をかけた。


「そういえば今さらだけど昨日のことは聞いている?」

「え、あ、藤村さんの事ですか? はい、聞いてます。何があったんでしょう……」


 少し慌てながらも進の言葉に反応する瞳。昨夜、進の蝙蝠が破壊されたことを受け浩一は浩二に連絡をした。使い魔の事も知っているのでうまく言って琴美の様子を聞いてもらうためだ。案の定、浩二が連絡を入れた時彼女は寅吉から傷の手当てを受けているところだった。

 数匹の猫に襲われたと言う。間一髪進の使い魔が時間をつくり、何とか彼女は逃げることができたらしい。その中にミケがいたかどうかは暗くて分からなかったらしいが、それ以来ミケを見かけてはいないらしい。


「分からない。ただ今回の事件にどうも猫が関係しているのは確かだろうね」

「けれど猫があんな風に人間を殺せるのでしょうか」


 瞳の頭にあるのは無残な撲殺したいとなった亀吉の姿だろう。その様子を思い出したのか少し表情が険しい。進は一つの可能性を思い浮かべていたがあえてそれは言わず無難なことを言った。


「猫では無理だろうね。だから少なくとも1人は人間が関わっていると思うんだけど」


 玄関が見えたところで二人は口を噤んだ。どんな話であれ、捜査状況を関係者に聞かれるのはよくない。


「ごめんください」


 玄関を開けて瞳がそう言うと琴美が出てきた。手の甲に包帯が巻いてある。


「いらっしゃいませ」

「連日申し訳ありません。ところで琴美さん、その怪我大丈夫ですか?」


 瞳の問いに琴美は少し笑った。明らかに昨日よりも顔色が悪い。病院でも見てもらったらしいが、怪我自体はそれほどもないらしいので心労であろうと二人は思った。琴美は二人と目線を合わせようとはしない。


「はい。ご心配をおかけしましたが、感染症もないようですので、二三日で治ると。ただお医者様からは抗生物質を処方されておりますのでそれを服用しております」

「そうですか。動物はどんな病原菌を持っているか分かりませんし、何より野良ですからね。ご無理はなさらなように」

「ありがとうございます」


 目線を伏せたまま会釈をする琴美。それを静かに見つめながら、彼女の先導で美奈子の待つ客間に向かった。進が初めてこの屋敷に来た時案内された部屋だ。あの時寅吉が座っていた一人掛けの椅子に美奈子は座っていた。

 先日と同じように着物を着ている。茶色と赤の着物。帯は白い。


「お茶をお持ちいたしますしね」

「いえお構いなく」


 進の言葉に小さく微笑みを浮かべた琴美は部屋を下がった。たぶんお茶を用意しに行ったのだろう。

 彼女が部屋をでると、進は先日と同じように長椅子に座った。瞳もその隣に座る。


「……美奈子さん、今日はお時間をいただきありがとうございます」

「いえ。こちらこそ、息子二人がケーキをごちそうになったようで」

「ああ、お二人も素直でとても子たちですね。立派なご子息で、さぞ美奈子さんも鼻が高いでしょう」


 それに美奈子は少し微笑んだ。やはり儚げな微笑み。夫に先立たれた妻としてはあたりまで、これが本来の彼女なのかそれとも違うのか分からない。不思議とにおいを感じない。


「そんなことはないですよ。まだまだ手がかかる子たちです」


 口元に手をやりふわりと首を横にする美奈子。猫のように目を細めている。


「失礼します」


 その時琴美が扉を開けて入ってきた。お盆の上にはよく冷えたグラスに入った麦茶が三つあった。それを進、瞳、そして美奈子の前に置く。美奈子の前にグラスを置くさい、少し彼女の手が震えるのが見えた。顔色が最初の時より悪い。

 進は袖口から小さなナイフを取り出した。そして再び指の腹に傷をつける。ぽたりと垂れる前に呟いた。


「形状、鼠」


 赤い小さな鼠が現れた。瞳側の手だったので、彼女以外は気が付かない。それが一礼をして部屋を退出する琴美を追った。麦茶を飲んでいるので美奈子はそれに気が付かない。それにほっとしながら進も一口グラスに口を付けた。


「ああ、そうだ。今日は息子さんたちは?」

「寅吉さんは会社に、申吉は何やら講義があるとかで大学に、戌吉は久々に部活に、それぞれ行っているようですわ」


 家の主が亡くなった直後の土日とはいえ初七日の法事はすんでいる。亡くなった原因が原因なのであまり派手なことは慎んでいるのだろう。それにまだ事件は解決していないのだ。

 ただ子供たちはそれぞれ気分転換も必要であろうし、大学の講義にこれ以上穴をあけることができないのだろう。それに寅吉は会社の事もある。


「そうですか。みなさんお忙しいのですね」

「まあ気落ちしているだけではいけませんからね」

「そうですね」


 指についた血をそっとこすって払い落としながら進は微笑んだ。瞳は特に口を挟まず、それとなく美奈子の様子をうかがう。


「じゃあいくつか質問してよろしいですか?」

「はい」


 もっていたグラスをことりとおいて美奈子は頷いた。白皙の美貌にくらりとすることもなく手帳を取り出した進。


「じゃあ単刀直入にお伺いします。寅吉さんとはうまくいっていますか?」


 その問いに瞳は目を丸くした。驚いたと、小さくつぶやく。だがそこに焦りの色はない。ただ純粋に驚いていた。


「私、寅吉さんとのこと言いましたっけ?」

「いいえ。まあそのあたりはどうしても捜査上に浮かびますので」


 さらりとそう告げた進になるほど美奈子は頷いた。さらに瞳がその言葉に説明を重ねる。


「どうして捜査上血縁関係のことは真っ先に調べますので。申し訳ありません」

「いいえ。そうですね。まあ特に隠し立てしていることでもありませんし」


 少し困ったような表情で笑いながら美奈子はそういう。


「それで寅吉さんとは……」

「ああ、はい。仲はそうですねえ……」


 視線を窓の外に向けながら考えるそぶりをする美奈子。よく手入れの行き届いた庭だ。普段ならそこには数匹の猫がいる。だが今日は一匹も見かけない。それは進の張った結界の効果だった。

 ただ昨日琴美が襲われて以来猫たちは姿を現さないので、もしかしたら彼ら自身がこの家を避けているのかもしれない。


「それはやはり、申吉や戌吉と比べれば、ね」

「隔意があると」


 視線を進に向けて美奈子は悲しげな顔で言った。


「ほかの二人と比べれば。ただ私は私なりにあの子をかわいがっております。亀吉さんの子どもであることには間違いないのですから」

「そうですか……お気を悪くされたら申し訳ありません」

「いいえ、仕方がないことですから」


 愛情を向ける度合いに違いがあることを言ってか、進の問いかけに対してなのか、あえて明言は避ける美奈子。それに対して進もあえて何も言わない。


「では寅吉さん亀吉さんの会社をお継にならないことに関しては?」

「それは……私は一切存じ上げておりませんの」


 美奈子は少し俯いた。はらりと後れ髪がうなじにそうように落ちた。


「その話になるとなんだか寅吉さんも頑なになってしまって」


 悲しそうに美奈子はそう言った。嘘はついていないように思ったが、どうも進には何か得体のしれない感触があった。しいてそれを言うなら『完璧すぎるゆえの違和感』だろうか。

 人型のロボットが人に近づくにつれて、陥る『不気味の谷現象』に近いように感じた。人間の死体を前にした時の違和感とも近い。だがそれをなぜ感じるのか分からなかった。

 ちらりと瞳を見るが特になにも感じていないのか不思議そうな顔で見返してくる。


「そうでしたか……」


 何となくだまりこみ麦茶を飲む。空気を変えるように進はこほんと咳払いをして再び質問をした。


「えーと、変なことを聞くようですが、亀吉さんが殺される前の日にご旅行に行かれたそうですが、差支えなければどこに行かれたお教え願えますか?」


 それに美奈子は笑みを浮かべた。そして思いもよらない言葉を言う。


「ごめんなさい、忘れてしまいましたわ」

「え」

「ほら、あの人が殺されてからずっと忙しくて、今探偵さんに聞かれてやっと旅行に行ったことを思いだしたくらいです」


 確かに時間は立っており、しかも突発的な旅行であったらしいのでそれはあり得ないことではないだろう。だが本当に今まで忘れていたというようなことがあるのだろうか。


「えーと、海に行かれたとか山に行かれたとか、そうしたことも」

「とんと覚えてませんね。切符も捨ててしまったようで残っておいりませんし。それが何か事件と関係が?」


 嫣然と微笑んで彼女は言う。思わず眉を寄せる瞳の手をそっと叩く進。それに瞳は表情をつくろった。進は穏やかに表情で頭をかきながら美奈子に言った。


「いえいえ、別に問題はありませんよ。ただ事件の前後のご家族の御様子をうかがいたくて」

「そうでしたか。ごめんなさいね」

「いえいえ。あ、僕のことは水月でいいですよ。また探偵は別のですから」

「ああそうでしたね」


 どうやら初めて会った時の『探偵助手』と言う言葉は覚えていてくれたらしい。


「分かりました。では当日のことは覚えておいでですか?」

「たぶん……刑事さんにはすぐに聞かれましたし」


 頬に手を当てて少し考え込むそぶりを見せる美奈子。それを見つめながら進は問いかけた。


「では亀吉さんが殺された夜、どこで何をされていましたか? あと何か不審なものや見たり聞いたりなされませんでしたか?」

「確かその夜は早くに寝ておりました。その夜は途中で起きることもなく朝になりましたわ」

「そうですか。旅行帰りですし、疲れておいでだったんでしょうね」

「ええ」


 何とも言えない奇妙な空気の重さを感じて瞳は少し深呼吸をした。結露ですっかり濡れてしまっているグラスを手に取って喉を潤す。そうすると少し気分がよくなった。


「では当日の朝は」

「確か、いつものように起きて身支度をした後リビングに向かいました。亀吉さんがなかなか起きていらっしゃらないので藤村さんが起こしに行かれて、そして……」

「亡くなっていたと」

「はい」


 悲しげに俯く美奈子。それが演技とは思えない。けれどやはり何かが違う。


「その時ミケはいましたか?」

「え?」


 関係者には必ずと言っていいほどする質問。これまではその質問に皆怪訝な顔をした。そして美奈子も例外ではない。怪訝そうに首を傾げる。すっと細くなる目。まるで猫の目のようだった。


「どうやら今回の事件には動物が絡んでいるようですので」

「そうでしたね。昨日も藤村さんが襲われて……」

「ええ。それで、覚えておられますか?」

「……さあ、その日はいなかったように思いますが」


 軽く握った手を口元に持っていき美奈子はそう答えた。そしてなぜかはっとしたように手を降ろす。別に何か変わったことをしたわけでもないのでなにか思い出したのかと思った。


「どうかされましたか?」

「い、いえ」


 そっと唇に当てていた手をもう一方の手で握りこんだ美奈子。


「……何かお困りのことがあったらすぐに言ってくださいね」

「ありがとうございます」


 あえて進は何も聞かないことにした。それよりも琴美の方が気になった。


「少し藤村さんから話を聞いても大丈夫でしょうか」

「たぶん。彼女ならこの時間台所に居りますから案内しましょうか?」

「じゃあお願いします」

「分かりました」


 ゆっくりと立ち上がった美奈子に続いて二人も立ち上がる。飲み終わったコップを持っていこうとしたが、それは美奈子がやんわりと止めた。


「ああ、それはまたこちらで片づけますので」

「けれど」

「お客様ですから」


 どこか有無を言わせぬ語調で美奈子は言った。


「わかりました。では案内をお願いできますか?」

「ええ。こちらです」


 しゃなりと、妙になまめかしく二人を先導する美奈子。細く白いうなじが目につく。そしてそれは進に限った話ではなかった。瞳もまた美奈子から眼をそらしていた。椅子に座っていたときには感じなかった。廊下という日の光が入りにくい薄暗くそして狭めれられた空間がそれを感じさせるのか。

 もちろん富山家の屋敷の廊下は普通の家と比べればひどく広く感じるが。客間という家という空間の中では少し異質な、つまり生活臭の薄い場所から台所という生活の基礎とも言える場所に移動する。

 もしかしたらダイニングキッチンと言った方が正しいのかもしれない。そこで琴美は帳面に何かを記入していた。


「藤村さん、水月さんがなにかお話があるそうですよ」

「ひっ、あ、お、奥さま。あ、ありがとうございます」


 あからさまに美奈子を恐れる琴美。ちらりと視線を交わして進と瞳は頷きった。だが美奈子は琴美の態度に気が付いていないのか、あるいは気にしていないのか特別おかしな顔もしない。

 子供たちからは彼女のこの様子は聞いていないので、そこは気をつけているのかもしれない。ただとっさの反応が明らかにおかしい。これまでの琴美を進たちはしらない。だがそれでもこれがおかしいと感じる。


「では私は自室に下がっておりますので」

「あ、はい。ありがとうございました」


 慌てて頭をさげる進。それに軽く会釈をして美奈子は家の奥に消えた。

 何とも言えない気まずい沈黙がおちる。


「申し訳ありません。どうしてもお聞きしたいことがありまして、今大丈夫ですか?」


 同じ女性ということでまず最初い瞳が声をかけた。それに慌てて琴美は頷いた。帳面をたたんで自分が座るダイニングテーブルの向いを二人に勧めた。


「な、なんでしょうか」


 するりと琴美につけていた鼠の形をした使い魔が足を伝って進の膝まで登ってきた。そっとその子の頭をなでながら進は少し考えた。


「えーと、とりあえず昨日の事を聞いておこうかと」

「あ、はい」


 あからさまにほっとした顔をする琴美。どうも嘘がつけない人間らしい。そのあいだに進は再び袖からナイフを取り出して指先を傷つけた。一滴、ネズミの体に垂れる。すると赤いネズミは進の顔をみるとほとんど滑り降りる要領で彼の脚を伝って床に降りたった。

 進は使い舞追加の命令を下したのだ。自室にいるとういう美奈子を見張れという内容。もちろん彼女が不振な行動をとっても全てが分かるわけではないが、使い魔のおおよその位置はわかるので本当に自室にいるのかわかる。


「昨日は夕方、こちらで猫と思われる動物たちに襲われた、そうでしたよね」

「ええ」

「詳しくお話願いますか?」


 それに琴美は頷いてぽつぽつと話しはじめた。


 ちょうどそれは進が使い魔の消滅を感じた少し前。時間は二十時を回っていなかた。十九時をすぎたころ。雨戸を閉めてしまおうと一人縁側に出た時小さく猫の鳴き声がした。


「ミケ?」


 夕飯時に現れなかったミケの声に雨戸を閉める手をとめた琴美。日もだいぶ傾き、もともと木々に覆われていたため薄暗かった庭は輪郭をいっそう朧げにする。いつもの見知った庭であるはずなのになんとも不気味に感じるのだから不思議だ。

 その庭にかすかに動くものがあった。草木の陰動いている。ちらりと光るものがあった。一瞬それが何か分からなかったがすぐに猫の目であると気がついた。見知ったものに思わず安堵のため息が漏れる。


「ミケ、入らないの?」

 だが琴美はすぐに気がつくことになった。それが一匹だけではないと。気がつけばあちこちかその瞳が自分を見つめている。


「ひっ!」


 思わずあげた悲鳴。喉の奥から漏れ出た小さな声に猫たちは過敏に反応した。辺り一帯から聞こえる低いうなり声。逃げなければと思ったが、それ以上に恐怖で足がすくんでしまった。


「にゃー!」


 一際鋭い声が響いた。本能的に琴美は自分の顔を手で覆ったがそれが功を奏した。何かが飛びかかってくる気配。一拍置いて手の甲に焼けるような鋭い痛みが走った。思わず座り込み手を床についた。

 腰が抜けて動けない彼女の目の前でたくさんの猫たちが姿を現した。どこかで見たことのる、つまりこの辺りを住みかにしている猫たちだ。その猫たちが低く唸りながらゆっくり近づいてくる。


「だ、だれか……!」


 必死に助けを呼ぼうとするが声がでない。だがその時だった。ぱさりと音がして猫と琴美の間にわって入る者がいた。

 猫たちを威嚇するそれは蝙蝠だった。琴美は知らないが、それは進が彼女につけていた使い魔だ。一匹の蝙蝠が猫を威嚇するという普段ならあり得ない事象に猫たちは戸惑ったように動きをとめる。

 緊迫した無言の対峙。その時家の奥から寅吉の声が聞こえてきた。


「琴美さん、一人で大丈夫ですか?」


 まるでその声に触発さるように猫たちがその蝙蝠に襲いかかってきた。琴美を守るように羽ばたく蝙蝠。彼女に猫たちの爪が伸びないようにひらりひらりと舞う。だが多勢に無勢。少しずつ蝙蝠の体に傷がついていく。


「雨戸重いでしょ。手伝いますよ」


 縁側のそばの障子をあけへたれこむ琴美を見つけた寅吉は慌てて彼女に駆け寄った。すると猫たちは一斉に攻撃をやめちりじりに去っていく。後に残された蝙蝠はしばらく羽ばたいていたのだが、ばらりと崩れて消えていった。


「琴美さん?!」

「寅吉、さん」 


 ぼんやりとした視線で寅吉を見つめる琴美。その手からは血が流れていた。真っ青になった寅吉は慌てて彼女を抱き起し病院に連れて走った。

 そこまで話して琴美はほうと息をはいた。そして話し始める前に用意いていた麦茶を一口飲んだ。瞳と進は用意しようかと言われていたがそれは断っていた。


「私からも一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」


 話していて多少落ち着いたのか顔色が少し顔色が戻ってきている。昨日と同じほどの状態だ。そのまま苦笑のような、少し疲れたような微笑で問いかける。


「あの蝙蝠、水月さんですか?」


 思わず進は口ごもった。頬をかきながらどうしようかと考える。あまり人に言いふらしてよい話ではないのだ。だがそれほど長く悩むことはなかった。琴美の中が完全に確信しているのに気がついたからだ。溜息をつきながら肯定する。


「ええ、僕の使い魔です」

「使い魔……」


 なんとも言えない、まるで夢物語を聞いているような表情。しかし納得いったと言わんばかりの眼差し。それはこうした出来事が初めてではないと二人には感じられた。


「あまり驚いていらっしゃいませんね」


 その言葉琴美は俯いた。ギュッと唇を噛みしげる。どう言おうか迷ったが、しかし進は端的に聞いた。


「何か見ましたね」


 琴美の肩が震えた。ゆっくりと彼女の言葉をもつ。どれほど時間が経っただろうか。根負けしたのはやはり琴美だった。言いたくはないが、しかしもう秘密にいしているのがつらかったのだろう。


「……私もよく分からないんです」


 ただ自分でもどう言えばよいのか分からなかったのだろう。話し始めても口ごもる。それを見かけねて瞳が口を開いた。


「琴美さん。私は実はこの家の事件で初めてアクアマリン患者の関係の事件を扱わせていただきました」

「そうなんですか」


 思わず琴美は顔をあげた。少し目元が赤くなっている。その表情に瞳は頷いてみせた。


「何度か信じられないことを目の当たりにしまいた。琴美さんがご覧になった蝙蝠もその一つです。私の常識はある意味粉々に砕けました。だから何を言われても頭ごなしに否定することはありません」


 そこまで言うと瞳は表情を変えた。相手を落ち着かせるような柔らかな微笑から、まるで罪を断罪するような鋭いものへ。進は彼女は本当に刑事なのだなと感心した。彼女が深く、それも悪い形で事件に関わっていると、進と同じように感じたのだろう。

 琴美の表情は罪を犯しそしてその罪悪感に押しつぶされようとしている人間の表情そのものだった。それは進にとっては見慣れた表情。まだ経験の浅い瞳にも見覚えのある表情だった。

 けれどその表情はその人間が罪の意識に苛まれているということ。後悔をしているということ。償いをする余地はある。


「それに何か深く後悔し、それが罪であるのならば、貴女はそれを償わなければならないと私は思っています」

「そう、ですよね……私のやったことは罪なんですよね」


 琴美は瞳の言葉に覚悟を決めたようだった。


「わ、わたし……」


 唇を震わせて琴美は必死に言葉を紡ごうとした。二三度大きく息を吐いて、とうとう彼女は言った。


「私は、たぶん、奥さまを殺しました」


 思わず瞳は怪訝な顔をした。まず美奈子はまず生きているという事実。『たぶん』というなんとも曖昧な言い回し。

 だがしかしどこか納得する。それは琴美の美奈子に対する過剰な怖れを理解するにはもっとも納得できる答えであったからだ。その隣で進は小さくため息をついた。どうやら彼はおおよその見当がついていたらしい。

 椅子の背もたれに深くもたれ進は天井を見上げた。何か小声でつぶやく。そして視線を琴美に合わせると彼女に問いかけた。


「美奈子さんの遺体は山に捨てたんですね」

「え、あ、はい。だけどどうしてそれを……?」


 進の言葉に瞳は眼を見開いた。色々ありすぎて忘れていたが、もうもう一つの遺体の存在を進が示唆していた。このことだったのかと瞳は思った。逆に琴美は疑問符を飛ばしている。そんな彼女に進は飛びっきりの笑顔を向けた。


「すいません。企業秘密です」

「……あの蝙蝠のようなものですか」

「まあそんなもんです」


 言外にこれ以上はしゃべることはできないと告げる。その拒絶の意思に気が付き琴美はそれ以上の説明は求めなかった。


「えーと、私からも一ついいでしょうか?」

「はい何かな五十嵐刑事」


 ぴょこんとまるで学校で授業中質問をするかのように手をあげて進に質問をする瞳。それに苦笑しながら彼女に合わせるように少しおどけて答えた。


「……先ほどまで私たちが話していた『美奈子さん』は何者ですか?」

「あー、それ聞いちゃうかー」


 なかなか重たい問いに進は苦笑した。いや、苦笑というにはそれは苦々しすぎた。必死に笑おうとして失敗したような。ほんの数日の付き合いだが彼のそんな表情は初めて見た。もちろんそれはよきされる問いかけではあったのだが、しかし答えにくいことにはかわりない。

 机に両肘をついて顎を手に乗せる。そしてじっと黙って何がしかを考える風情になる。唇を舐めてぽつりと言った。


「まず間違いなく、美奈子さんは亡くなっています」

「っ! はい」

「彼女を殺したのが誰かは、」

「そ、それは私が!」


 どこか慌てたそぶりを見せる琴美に対して進は笑顔を向けながらも横に首をふる。思わず黙り込んでしまった琴美を無視して進は話を続けた。


「さておいて。さあて、五十嵐刑事は僕がなぜ例の匂いを見失ったか、仮説は覚えてるかな?」

「はい。確か動物……まさか?」

「そのまさかの可能性を考えないといけないのが僕らの仕事だよ」


 琴美はいったいなんの話なのだろうかと怪訝な顔をしている。それに答えようかと進が口を開きかけた時、玄関から三人分の声が聞こえてきた。そしてそのままこのリビングにやってきた。


「あれ、水月さんと五十嵐刑事さん?」

「やあ、おじゃましてるよ」

「お邪魔しています」


 椅子から立ち上がって進と瞳はちょうど一緒に帰ってきた寅吉、申吉、戌吉にぺこりと頭を下げた。それに慌てて頭を下げながら、その奥で固まっている琴美に声をかけた。


「ただいま琴美さん」

「ただいま」

「琴美さん、なんかおやつある?」


 ただいまお言わずにお菓子をねだる一番末の弟にげんこつを入れながら寅吉は進たちに声をかけた。


「昨日のことですか?」

「ああ、はい。あと美奈子さんからもお話を聞きたかったので」


 そう答える進の後ろで琴美は真青な顔色になった。それに慌てて申吉と戌吉が駆け寄る。一瞬寅吉も彼女に駆け寄るようあそぶりを見せるが寸前で動きをとめた。まるで琴美に触れることができないことに気がついたような、そんな不自然さだ。


「大丈夫?」

「昨日のケガもあるし無理しない方が……」


 二人のそんな気遣いが今の琴美には何よりも辛かった。とうとうこらえきれなくなった琴美は嗚咽を漏らした。涙が後から後からあふれ出す。


「こ、琴美さん?!」

「なに?! 俺らなんか悪いことした?!」

「ちがう、違うんですっ! ごめんなさい、ごめんなさいっ!!」


 その様子を見て三人はまさかと進を見た。青ざめた彼らの表情を見て進は沈痛な表情で、しかし首を横に振った。


「亀吉さんを殺したのは彼女ではないですよ」


 進の言葉にほっとする子どもたち。だが現実はもっと残酷であることをしらない。一番最初に進の言葉のニュアンスに気がついたのは寅吉だった。


「……何か含みのある言い方ですね、水月さん」

「あはは、ばれちゃました?」


 視線を寅吉に向けた進。その目に不思議なほと温度を感じさせない。思わず寅吉はその視線に怯んだ。根源的恐怖を感じる。

 だが同時に感じるのは沼底に沈んでいくよな深い悲しみ。


「なんていうか、色々ご家族の中での秘密はあるでしょうが、しかしそう言うことはちゃんと警察に聞かれた時、きちんと言ってもらわないと困るんですよ」


 さっと寅吉は表情を青ざめさせた。それに進は首をかしげる。基本は琴美一人に言ったものだったが、そう言えば彼も何か秘密がありそうだったなと思いだした。それに関してはおおよその予想がついているとは言え、今回の件にまったく関係ないかと言えばたぶん間接的にでも関わっているだろうと予想は簡単にできる。自分に対して言われたと思っても不思議ではない。

 昨日、申吉と戌吉は自分たちの一番上の兄が何か隠しごとをしていると気がついていたので心配そうに寅吉を見た。それにたまりかねて寅吉は視線を下にむけた。


「あ……」


 それに進は何か言おうとした。そのままこの場で言わせてもいいかと考えたのか。だがそんなことを言っていれる状況ではなくなった。


「バレた」

「え?」


 ぼそりつぶやかれた進の言葉に瞳は首をかしげた。リビングの入口にたたずむ寅吉、机に座る琴美と彼女のそばにいる申吉と戌吉にいぶかしげに進を見る。だが見られている進はそんなことに気がつかない。一瞬彼の眼が赤く染まる。

 じっと天井の一点を見つめている。その表情は険しい。そしてぷつりと糸が切れたように崩れ落ちた。右手で椅子をつかんでかろうじて倒れることは免れたが顔が青い。左手で自分の胸を抑える。


「さすがに、二日連続だとキツイ」

「水月さんっ?」


 脂汗すらませている進の様子に瞳も慌てた。その彼女を押しとどめるとゆっくりと体を起こした。そして今外から帰ってきたであろう寅吉に問いかける。


「先ほど、家の外で猫を見かけませんでしたか?」

「え、いや。僕は見ていないです……?」


 とりあえず質問には答えが寅吉はその問いの意図がつかめず戸惑った。そのせいでなんとも語尾が不明慮になてしまう。

 その様子を見ていた戌吉は小さく声をあげた。全員の視線が彼に向う。それに少しまごつきながらも、戌吉は自分が見たものを話した。


「猫いたぜ。なんかうちの隅に群がってた」

「それは外だよね?」

「うん。木陰になってたから寝てるのかなーって思ったけど……昨日のこともあるし、もうちょっと早く言えば良かったかな」


 最後は恐る恐ると言った体で彼は言う。進はそれに首を横に振った。進だってこれほど事態が急速に動くとは思っていなかったのだ。だれも責めることはできない。それよりも重要なのは、今この場にいる人間の安全を保つことだった。

 現在、その危険に気がついているのは進一人。どうやって説明するかと考えていたが、そんなことは言っていられなくなった。


『にゃー』

「猫?」


 最初は一匹だけかと思った。すぐ近くで鳴いているかのような音量に全員があたりを見わす。琴美が襲われてから二十四時間もたっていないせいか、全員の表情に緊張が見られる。だが見当たらない。ねんのために寅吉が廊下を見たが、猫一匹ネズミ一匹いない。

しばし猫の姿を探していたが、すぐに自分たちはとんでもない思い違いをしていることに気がついた。今自分たちの耳に届いている鳴き声は、数匹、いや何十匹という猫たちの鳴き声が一匹の声に聞こえているのだ。


「なんだよ、これ……」


 思わずという風につぶやかれた申吉の一言がこの場にいる人間の心の声を代弁している。


「水月さん、今一体何が起こっているんですか?!」


 寅吉の悲鳴のような問いかけに進は眼を細めた。どこから説明するべきか、そもそも説明する時間はあるのかと思いながらも少々体は辛いが自分が作った結界に意識をこらした。破られた気配はないことにほっとした。

 だが同時に寒気も感じた。猫たちは結界のせいで塀の上にも登れないはず。つまりこの声はすべて門の外から聞こえてきているということになる。


「えーと、まず。今この猫の鳴き声はミケが操っている可能性が高いです」


 だれもそのことに関しては意義を唱えなかった。その考え以外に今のこの状況の説明がつかないように思えたのだ。不思議と他の可能性を思いつかない。疑問を感じない。

 全員を見つめる進の瞳が赤くなっていることに気がつかない。


「ただ自分たちから扉を開けるなどの行動をしなければ猫たちは入ることはできません」


 ふっと軽く息を吐いた進。光彩は元の黒に戻っていた。そして全員を縛っていた催眠的効果も切れる。

 これでしばらくは門を開けようとするものはいないはずだ。そしてミケが操っていることに関して疑問を感じない。進の使える催眠術の効果は一時間ほどなのである。


「それで、家の中から門を開ける方法とかありますか?」

「え、あ……こ、このリビングに」

「そうですか、じゃあちょうどよかった」


 もしここになければ急いでそこに向かわなければならないところだった。あえてそこは説明しなかったが全員、理解はできたらしい。不安そうにリビングの一角を見つめる。そこに門の開閉の機械がインターホンと共にあるらしい。

 その時瞳が何かを思いついたように声をあげた。不安そうな眼差しで進を見て言う。


「あの門って、内側からなら簡単に開けることができるんじゃあ……」

「そうだった!」


 進は自分のカバンを漁ると、今朝出発する前に渡された小瓶を取り出した。瞳以外の人間はそれがなんであるか分からなかった。とろりとした液体が入った小さな細長い小瓶。少し洒落た百円ショップなどで手に入りそうなものだ。ちらりと見えた色は赤。


「こ、これ」

「もし僕がいない間に何かがあったらためらわずに開けて。時間は稼げるはず」


 瞳は差し出された小瓶を受け取るのを一瞬躊躇してしまった。だがすぐに受けとる。その手が少し震えていたのに気がついたが進は何も言わない。

 小瓶の中身。それは間違いなく血液であると瞳は確信していた。それは進がこの家に入る前に見せた結界や使い魔のことから容易に連想できたことだった。

 そしてこれを進に渡したのは浩一。つまりこれは浩一の血液であいる可能性が非常に高かった。

 進は言った。『自分の力は借り物である』と。ならばその元となった浩一の力はどれほどなのか。そっと握り込んだ小瓶は想像していたような温もりもなく、かといって冷たいかと言われればそうでもない。


「五十嵐刑事、頼んだよ」


 進の声に職務を思い出した瞳は顔をあげてうなずいた。一般市民を守るのが刑事の仕事だ。


「はいっ!」


 瞳の返事に進は少し笑って駆け出そうとした。だがその手を寅吉がつかむ。


「門への近道を教えます」

「……お願いします」


 腕を攫む強さとその強い眼差しを受け進は少し迷うそぶりを見せたが、その申し出を受けた。二人で走り出すのを瞳は見送った。



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