1-1 朝
それは、たった一つの願いだった。
世界が滅ぶような戦いに巻き込まれたりしない。
何かに選ばれたり、超能力に目覚めたりしない。
ある日突然、異世界に飛ばされたりしない。
非現実も非日常も求めてない。
本当に欲しいものは、ただ一つだった。
「あっ、暁理。猫いる猫」
幼馴染は俺の名前を呼びながら、道端の草むらに隠れてる猫を指さす。
そこにあるのは、いつもの世界。
いつもの夕暮れ。いつもの放課後。
いつもの帰り道。いつもの幼馴染。
「にゃ〜……にゃ〜ん……」
道の脇に生えている草に隠れている猫を手懐けようと、手を伸ばしながら猫の鳴き声を発する幼馴染。
しかし、全く懐いてない。むしろ、猫は警戒するかのような目で幼馴染を凝視する。
「うーん……私が圧倒的美少女過ぎて、近寄り難いのかな?」
幼馴染はこちらを振り向きながら、わざとらしく困ったような顔で口を開く。
「ほざけ」
「じゃあ暁理がやってみてよ、ほら」
「はいはい」
俺は幼馴染の隣に座り、猫に手を伸ばすと、猫はまるでバケモノでも見たかのような形相でそそくさと逃げていく。
「暁理の方がダメじゃん」
「うるせー……」
「……ぷっ、あはははは!!」
彼女は笑う。
いつも見ている、なんてことの無い笑顔。
でもその笑顔は眼が潰れてしまいそうなぐらい眩しくて綺麗で美しい。
そんな太陽のような幼馴染を見て、改めて願う。
この平凡で、平穏で、ありふれた平和な人生を。
ずっと。
そう、俺は願っていた。
―――――――――――――――――――――――――
「……ん」
カーテンの隙間から、太陽の光が流れ込んでくる。
枕の横に置いてある充電器を差し込んだスマートフォンを起動さると、そこには『7月7日 6:51』と表示されていた。
「……ぅ」
最悪だ。
アラームが鳴る前に目覚めてしまった。
ざけんなよ朝日。流れ込んでくんじゃねぇ。カーテンの裏でじっとしとけよ。
もう一度寝ようかとも思ったが、アラームが鳴るのは7:00。最大限寝れたとしても残り9分。殆ど寝れない。というか、今6:52になったから残り8分。死ねよ。
「……はぁ」
俺は重い身体をゆっくりと起こし、ベッドから起き上がる。
制服に着替えて、洗面所でスマホで漫画を読みながら歯磨き。顔を洗い、ドライヤーでひどい寝癖を整える。
朝の身支度を終えてリビングに入ると、そこにはソファに座りながらテレビを観て談笑している両親がいた。
「……おはよう」
返事はない。
聞こえなかったからでは無い。
どうしようもない悪意からくるものだ。
でも、それがこの家の常識だ。
だから、悲しいとか寂しいとかは、もう思わないし、思えない。
俺は食パンとバナナをさっさと平らげ、カバンを持って逃げるように玄関の扉を開ける。
扉を開けると、さっき怒りを抱いた朝日が全身に流れ込んでくる。
同時に、
「おはよ、暁理」
正面から俺の名前を呼ぶ、聞き慣れすぎた声が聞こえる。
半袖のシャツに朱色のネクタイ、紺色のチェックのスカートに茶色のローファーという弊校指定の制服を完璧に着こなし、暗い灰色のポニーテールを携えた俺の幼馴染『零奈』が目の前にいた。
「今日も捻くれ者の顔してますなー!」
開口一番、零奈が元気に俺の顔面をイジる。
俺は扉を閉めながら口を開く。
「どんな顔だよ……すまん、待った?」
朝、零奈はいつも俺の家の前で待ってくれている。
別に約束している訳では無いのだが、それでもこいつは絶対にいる。そして、一緒に登校するのが毎日のルーティンだ。
しかし、今は7月。夏真っ盛りだ。
こんな暑い中で待ってもらって、体調が悪くなったりでもしたら、申し訳ない。
「全然!それより、この空前絶後の美少女にお出迎えされる気分はどうですか〜!?」
前言撤回。どうやらこいつは今日も元気らしい。
「別に」
「照れてるの〜?」
「10年以上の付き合いで今更照れるかよ」
「まあそれもそうか」
零奈はそう言いながら歩き始め、俺もその隣を歩き始める。
時刻は7:45ぐらいだろう。時刻的にはまだまだ朝だ。しかし、この突き刺さるような日差しと纏わりつくような湿気、そして常に薄い炎が世界に充満しているような暑さ。
地獄だ。
ただの住宅街が、ただの通学路が地獄と化している。
そんな地獄でも、隣を歩く零奈は一切汗をかいていない。むしろ爽やかな表情で夏の空を眺めている。
零奈は定期テストで毎回一位を取るほど成績優秀、体力テストで満点を取るほど運動神経抜群、学園一・二を争う程の容姿端麗。人当たりも良く、男女問わず誰に対しても分け隔て無く、明るく優しく丁寧に接する。当然、教員からの信頼は厚く、生徒達からも男女問わずモテる。
もし、この世界を舞台にした物語があれば、彼女が主人公だと思えるぐらい、眩しくて美しい。
そんな主人公は不思議そうな顔でこちらを覗き込みながら口を開く。
「なんか今日眠そうだね。何時に寝たの?」
「1時ぐらい」
「そんな遅くまで何してたの?勉強?」
「ジャ◯プ読んでた」
「……あんた受験生だよね」
「だって今日、発売日だし」
「1分1秒でも勉強した方がいいでしょ」
「日付変わるまでは勉強してたから」
「その言葉が本当か、命賭けれる?」
「デスゲーム始める気なの?賭けれるけど」
「でも、暁理。本当に私と同じ大学行けるの?」
「うっ……それは……」
俺がそう漏らすと、零奈はこちらを覗き込みながら悪戯な笑みを浮かべる。
これはまずい。零奈は俺をイジる事に人生の容量の5割は割いている。そして、そのイジりの精度はこの10年の付き合いの中でプロの領域に至っている。
つまり、今から起こる事は予測可能・回避不可能の言葉による処刑だ。
「暁理〜本当に勉強しないとまずくな〜い?この前の模試の結果、悪かったよね〜?」
「うぐっ……」
今の俺が言われたく無い事を、確実に的確に放っていく。
零奈は既にA判定出てるからって……こ、こいつ……
「偏差値高い大学志望してるのに、勉強せずに漫画なんて読んでて大丈夫なのかな〜?暁理く〜ん?」
「うぐぐっ……」
めっちゃイジるやんこいつ……朝から最悪なんだけど……
「だから、はい」
唐突に零奈はカバンから小さな紙袋を取り出して、俺の前に差し出す。
「えっ、なに?」
「いいから、はい」
零奈はその紙袋を俺に押し付けるように差し出している。
俺は恐る恐る、その小さな紙袋を受け取る。
「ドッキリじゃん、これ。見え見えの罠に引っかかるかよ」
「違うから、開けてみて」
「……絶対ドッキリ」
「私、そんなに信用無い?」
「『こちら側のどこからでも切れます』ぐらい信用してるよ」
「それ常に疑ってるって事?」
零奈は若干不服そうな顔をしていたが、それを無視して俺は紙袋を開けてみる。
絶対ドッキリ系のグッズだよ……と覚悟していたが、いざ紙袋を開けてみると、そこにあったのは全く予想していないものだった。
「……お守り?」
紙袋に入っていたのは、学業成就の赤いお守りだった。
「うん、暁理が私と同じ志望校行けますようにって」
そう言いながら、零奈はカラッと明るく笑う。
しかし、俺はそんな笑顔に反して、起きた現実が予想外すぎてつい動揺してしまう。
「う、嬉しいけど……な、なんで?」
「なんでって……受験生に学業祈願のお守りあげるのは普通の事では?」
「で、でも……急すぎて……なんで今日?合格祈願にしては早く無いか?」
「暁理、今日誕生日でしょ」
「……え?」
その言葉に、俺はさらに動揺してしまう。
そんな俺を見て、零奈は『こいつマジか……』という顔をしながらため息をつく。
「やっぱり、忘れてたんだ。自分の誕生日忘れるとか、どんだけ自分の事嫌いなのよ」
「あっ、あれ?今日って7月7日?」
「そうだよ。今日七夕ですよー。自分の誕生日を忘れてしまうおバカさん」
俺は右手で目を覆いながら、零奈の言葉に心の中で賛同してしまう。
そうだ、今日7月7日だ。スマホ見た時にがっつり表示されてただろ。なんで気がつかなかったんだ。自分の誕生日を忘れてしまうなんて。その癖、ジ◯ンプの発売日はちゃんとチェックしてんだろ?終わってるだろ、俺。
「……ふふ」
ふと、隣から笑い声が聞こえる。
「やっぱ、ちょっと抜けてるところが、暁理っぽいね」
零奈は爽やかに笑いながら言葉を続ける。
「大丈夫。暁理はバカで間抜けで捻くれ者だけど、やる時はやる男なの知ってる。だから、絶対大学も合格できるよ」
「それ褒めてる?」
「褒めてるよ。成績もちょっとずつだけど上がってきてるし、可能性はある。信じてるよ」
零奈はカバンの紐をぎゅっと握り、力強く言い放つ。
「絶対、一緒の大学行こうね。暁理」
零奈はそう言いながら、太陽のような眩しさで微笑む。
その瞬間の零奈の耳は、何故か真っ赤だったが、それはきっと夏の暑さのせいだろう。
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