第二百三十三面 読みかけの物語
先輩から借り受けた『アリス物語』の初版を持って、ぼくは帰宅した。店で使っているというおしゃれな紙袋に包んで、更にその上からビニール袋で包んでリュックに入れている。
あぁ、今ぼくのリュックの中には『アリス物語』の初版があるのだ。きっと、今は何か嫌なことが起きても全てをこの喜びで上塗りできるだろう。浮足立っている、というのはこういう状態のことを言うのだ。るんるんしている。うきうきしている。とてもハッピーだ。
部屋着に着替えて、早速本を手に取る。
「わぁ……。わ……」
いや、ちょっと待て。こんなくたびれたパーカーと穴の空いたジャージでいいのか? もっと正装の方がいいかもしれない。制服のままで良かったかも。どうしよう。
椅子から立ったり座ったり、部屋をうろうろしたりして、最終的にぼくはクローゼットを開けた。以前公爵夫人に仕立ててもらった衣装に着替え、気合を入れる。姿見に映るぼくはなんだかいつもより凛々しい……けれど……。
あれ? これもなんか短くない……? ぴったりサイズで作ったからかも。背が伸びたのは嬉しいけれど、折角作ってもらったのにな……。
まあ、長さはさておき本を開く準備は整った。これで……!
「……お風呂に入ってからにしよう」
斯くして、ぼくは入浴も夕食も明日の授業の用意も済ませてから改めて着替えて椅子に座った。深呼吸をして、『アリス物語』の初版を手に取る。
「よし……」
ページを捲れば、世界はそこに広がっている。
黄金の昼下がり。三姉妹にせがまれて先生がボートの上で語った物語。
小さな頃から何度も何度も、この物語を読んで来た。飽きるほど読んで、まだ飽きない。表紙を捲る度に、ぼくはこの世界に新鮮な気持ちで飛び込むのだ。
白い兎を追い駆けて、不思議な国に迷い込んで、おかしな住人達に出会って。何度も何度も繰り返して、その度にわくわくした気持ちになった。
不思議の国だけではない。本を開けばどこへだって行ける。本棚に詰め込まれたぼくの大好きな世界は、いつだって快くぼくを迎え入れてくれる。現実では行けないような場所に連れて行ってくれるし、出会えないような人達に出会わせてくれる。笑ったり、泣いたり、びっくりしたり、色々な気持ちになれる。ぼくは怖い話が苦手だけれど、そういうお話が好きな人にとってはきっとそれも素敵なものなのだろう。
へんてこりんな世界を冒険して、やがて、木漏れ日の中で、少女は目を覚ます。
今回も良き読書だった。満足感と喪失感の余韻に浸りながら、ぼくは本を閉じた。
ぼくは本が好きだ。読書が好きだ。ずっとずっと、大好きだ。ページを捲る手を、止められない。読みかけの物語をそのままにするなんてできない。
姿見に映るぼくは少し不安そうな顔をしていた。ページを捲ることが怖くて、表紙を捲れないかと思ったこともある。けれど、やっぱり、ここで読むのをやめることはできない。
「よし」
本棚から本を二冊取り出して、ぼくは姿見に飛び込んだ。上手に説得する文言なんて思い付いていない。けれど、今この瞬間に行かなければ勢いがなくなってしまいそうで、足を止めてしまいそうだった。
兎の穴に落ちて行くように、周囲の世界が変わって行く。
◇
しんとした部屋に降り立つ。月明かりが差し込む薄暗い部屋には誰もいない。
アーサーさんの部屋から廊下に出ると、リビングから明かりが漏れているのが見えた。
まるで、今から鬼ヶ島に乗り込んで戦いを挑む桃太郎のような気分だった。怖気づきそうなのか、それとも武者震いか、体が小さく震えたような気がした。今のぼくの隣に、お供の動物はいない。
けれど。
進め。
歩け。
たった一人でも、行くのだ、有主。
本を読むその瞬間は、いつだって一人なのだから。
深呼吸をしてから、ぼくはリビングに踏み込んだ。
「こ、こんばんはぁ!」
元気よく挨拶をしたぼくに、銀に近い水色の瞳が向けられた。
リビングではニールさんが一人でグラスを傾けていた。ワインらしきお酒の瓶がテーブルに置かれている。公爵夫人達はニールさんの部屋にいるのか、それともログハウスが直って帰ったのか。
ぼくのことを視認しても、ニールさんは何も言わずに静かにお酒を飲んでいた。声をかけてもいいのかな。近付いたら怒られるかも。どうしよう。そんなことを考えて突っ立たままおろおろしていると、声をかけられた。
「アリス」
「うひゃぁ、はひぃ!」
「来るなと言ったはずだ」
「ご……」
駄目だ。ここで「ごめんなさい」と言って引き下がっちゃ駄目だ。
「い、嫌です! ぼくは、何度でもここに来ます!」
「五月蝿ぇな……。きゃんきゃん吠えんじゃねえよ、子犬か」
「人間です!」
「……帰れ」
猫耳が反り、尻尾がソファに叩き付けられるように大きく振られた。ぼくは猫の習性に詳しくはないけれど、この二年間ニールさんと付き合って来たから分かることもある。これは、とても機嫌が悪い時の反応だ。
いつものぼくならばここで半泣きにでもなりながら逃げたところである。でも、今日はそうじゃない。
「帰りません!」
「帰るんだ。ここはオマエの世界じゃない」
「ここは、ぼくにとって大切な場所です。小さい頃から憧れていた世界が目の前にあるみたいで、わくわくした。最初は絵本の中に飛び込んだみたいな気分だったのかもしれないけれど、今は……。今、ここは…。ここは、ぼくにとっての、もう一つの世界なんです。ここはぼくの居場所です。ぼくは。ぼくは、神山有主。そして、アレクシス・ハーグリーヴズです」
「オマエはここではない世界から来た人間だ。これ以上関わらないのが身のためだ」
「読みかけの本を放置することなんてできません。それは現実で起こっていることに対しても同様です」
「我が侭を言うな」
「言います!」
ぼくは一歩踏み出す。緊張しているのかもしれないし、興奮しているのかもしれない。よく分からないびりびりしているような感覚が、体に走る。捲れ、目の前のページを。
「ぼくは、きっと……見届けなければならない。もしも、チェスやジャバウォックの言う『アリス』がぼくと関係があるのなら」
「それはこの間聞いた」
「好奇心が、溢れて」
「それも聞いた」
「ここから、逃げたくない。逃げられない。……も、もちろん危ないと思ったらその場所からは距離を取りますけど、ワンダーランドからは逃げません」
不機嫌そうに尻尾が振られる。
「俺はオマエの安全を保障できな――」
「それに! ぼくが! ぼくだけ、逃げるなんて! だって! だって……。ぼくが何もしなければ伊織さんは……。それなのに、ぼくだけ逃げるなんて、できない、し……」
「イオリ……? あぁ、ヤマトが気にしてたやつのことか。そういえばその件はどうなったんだ。最近あの風来坊の姿も見ねえし」
「大和さんは……。大和さんは今、鏡の外のぼくの世界の方にいます」
「……は?」
イライラした様子だったニールさんがきょとんとした顔になった。弄んでいたグラスが手からぽろりと落ちる。幸いにも中身は空だったのでお酒は零れていないし、ソファに転がったので割れてもいない。
そうなのではないかと思っていたけれど、やはりニールさんは知らないんだ。つまり、大和さんはこっそりこの家に忍び込んで姿見を潜って来たんだ。正面切って現れていたら、アーサーさんの部屋への侵入をニールさんが許すはずがないもんね。
グラスを拾ってテーブルに置き、ニールさんはぼくを見る。
「詳しく説明してもらえるか、アリス」
そう言って、向かいのソファを指差した。




