第二章 第三勢力
ちょっとした言い争いになった。「補習は強制じゃない」と言っていた先生だが、ミュウの手を引いて教室を出ようとした緋色には、意外に強い言葉を浴びせた。
「あらあら! そっちのクラブは強制のようね? フェアじゃないな! なんだか!」
緋色のリンスがふっと香った。怒りのため発汗したのだろう。ミュウは思った。シーン的にはおいしいシーンだな⋯⋯。握られたままの右手が痛い。
その話し振りからも明らかなように、ミュウは陰気で、なんの取り柄もない少年だった。キモヲタだった。義務教育のあいだ中いじめられ続け、と言って親に逆らってまで不登校にもなれず、どうせ僕なんかという思いだけを毎日更新してきたのだ。おまけに趣味がアニメとホラーときては、傍目には青春を投げているとしか思えない。そしてそれは、ある意味当たっているのだった。
できれば誰も好きになりたくない⋯⋯。特に女子は⋯⋯。
春から始まった高校生活にも、なんの期待も抱いていなかった。
体育館での部活説明会のあと、午後は勧誘や体験入部という一日があった。だが彼は勧誘らしい勧誘も受けず、よかったらどうぞ、などと言われ数枚のビラを渡されただけで、E組の教室に戻ってきた。ここでは帰宅部はマズいらしい──。そうきいてはいたが、すでに『E組落ち』している身だ。
手持無沙汰のまま部活紹介の冊子をパラパラやっていると、後ろのほうの「今年始まったクラブ」のページに、『Xクラブ』というレタリングの文字を見つけた。クラブ名の下に『旧館310』と部屋番号が書かれている以外、なんの説明もないクラブだったが、ホラー好きの彼にはすぐピンときた。これきっと、『Xファイル』から取ったんだな! 『Xファイル』。一応『SFテレビドラマ』と銘打たれていたが、SFと呼ぶにはちょっと眉唾な、UFOとか超能力とかを扱ったドラマだ。このクラブなら幽霊部員になっても、ガミガミ言われることはないだろう。そんな風に思いながら、旧館三階の端まで行った。
旧館はなんとなく薄暗い感じで、彼の気分はむしろ盛り上がった。ところが⋯⋯。
ノックの音に返ってきたのは、美しいソプラノだった。
「『Xクラブ』部室です! どうぞ!」
しまった⋯⋯。そっち系のサークルだったか⋯⋯。これもホラー好きならすぐピンとくる。例えば『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』。アニメだったら『BLOOD+』。彼はコアなマニアではないから、イケメン好きの女性ホラー・ファンを差別したりすることはないが、と言って彼女たちのサークルに、彼の居場所がないのは事実だ⋯⋯。という訳で彼は、
「ごめんなさい。まちがえました」
と謝りながらドアを開けた。すかさずソプラノが返ってくる。
「どうしてっ? お化けが好きそうな顔してるじゃない! 不穏なオーラがムンムンしてるっ!」
確かに声は美しかったが、こんな馬鹿なことを言うのは誰だ? 西日の部屋の中に目を凝らすと、二人の女子がいた。一人が織本緋色。そしてもう一人は長井亜希だった。ダークなイケメンのファン・クラブ系サークルという予想は、結局彼の杞憂に終わった。
妙に狭い部屋だった。だが奥行きだけはある。ロッカーを壁代わりにならべ、元々一つの部屋を二つに分けているのだった。ただその割りに西日が眩しい。ちょうどそんな時刻だったのだろう。
部屋の奥に事務用デスク──。そこに悠然と座り眩しい西日を後光にしていたのが、緋色。彼女の黒髪はそのときばかりはまさに金色に輝いていた。
手前には長机二台をくっつけ、対面で都合十人分ほどの席──。とはいえ部屋には二人しかいなかったので、奥のほう、緋色の右手に亜希。度の強い眼鏡が光り、『Xファイル』からの連想も加わり、多少背が高いグレイ型エイリアンにしか見えなかった(もちろん彼は心の中で、『ごめんなさい!』とシャウトしていたのだが⋯⋯)。
まだ冬服の季節だったが二人はブレザーを脱いでいたので、緋色の胸がやけに目立った。彼女は満面に笑みを浮かべ、言った。顔の造りは美形なのに、ちょっと馬鹿に見えたくらいだ。
「男子部員第一号ね! どこでもいいから好きなとこに座って! 私は部長の織本緋色! 君は確か蒲生君だったね? 私たち同じ一年E組よ! こっちは一年A組の長井亜希さん! 彼女A組よ! A組!」
それから三日ほど⋯⋯。ごくごく自然に彼はミュウになっていた。早くもムシムシし出した部室で、彼ではなくて亜希が質した。
「ねえ緋色、『ミュウ』君ってニックネームのことなんだけど⋯⋯」
「ああ、昔私が飼ってた亀よ。ミドリガメ──。亀は万年ってゆうけど買ったその日が九千九百九十五年目だったのかな? たった五年で死んじゃった⋯⋯。いっぱい泣いちゃったよ。そういえばあの頃から転生のこととか、調べ出したんだっけ⋯⋯。あと反魂香のこととか⋯⋯」
亜希が緋色の右手に座るので、ミュウは緋色の左手に座った。そして亜希とミュウとは向かい合う形になる。正面からだと眼鏡は光らない。細面の輪郭はときにひしゃげて見えることもあったが、まあかなりの余裕で、知的な美しさを保っている。
「ねえミュウ君。このままだと亀にされちゃうよ? いいの?」
無駄に傷口を広げるひとだな、と思った。E組ではそれはもう定着してしまっていたし、そもそも彼女自身、『ミュウ君』などと言っている。もうしょうがないよと言おうとしたところに、緋色である。
「何言ってんの! 私子どもの頃ミュウと結婚しようって思ってたんだから! よく『あたしパパのお嫁さんになるうっ』なんて馬鹿なこと言ってる子どもがいるけど、そんなのよかよっぽどいいでしょっ? とにかく『ミュウ』ってそういう名前なんだから、むしろ誇りに思いなさいよ!」
超自然現象の研究会だが、超自然現象などそうそう起こるものではない。普段はメアリ・シェリーやブラム・ストーカーなどの読書会をやっていた。数ページだったがポリドリの『吸血鬼』の翻訳なども試みた。幽霊部員を決め込むつもりだったミュウも、結構熱心に活動した。世界が広がって行く感覚があった。もう一度新入部員の募集をかけようと、三人で話し合った。だがやはり、緋色の独壇場だ。
「例えばね、オカルトってね、『もう一つの隠された知識』って意味なの! グノーシス派とかね。私たちは進学組のテスト結果重視の知識ではなく、といって体育組の反知性でもなく、この北蘭の第三勢力目指しましょう! あっ、ごめんっ、亜希っ」
とはいえただ一人の新入部員もなく、緋色が主張したその第三勢力の位置には、なぜか『CAIルームの補習組』が居座っている。
E組の教室──。現在──。猪口先生が緋色に追い打ちをかける。
「こっちははっきりミュウ君の口から、ノーって言われた訳じゃないんだけどな。そうでしょ? ミュウ君?」
「先生が断れないようにしてるんじゃないですかっ! 結城君なんかを陰でコソコソあやつったりしてっ!」
「それは結城君にたいしても失礼よね? 彼だってあなたのクラスメイトでしょう?」
結局緋色に手を引かれるまま、E組の教室を逃げ出す形になった。六月の夕日がギラギラしていて、彼女の上履きの音にも更に激しい何かが含まれていて⋯⋯。が、その口を吐いて出た言葉は、意外なくらい弱々しかった。
「こっちも⋯⋯。断ってくれたっていい⋯⋯」
思わず横顔をチラ見した。もう手は引かれていない。普通にならんで歩いている。旧館への渡り廊下にさしかかっていた。何か言わなきゃと思っていたのだが、どうやらその必要はなさそうだった。
「ミュウってヤンキーに、なんかルサンチマンあるよね⋯⋯。それでなの? 補習嫌がってんの⋯⋯。つまり結城君のことが⋯⋯」
「いやその、それもあるけど⋯⋯。補習に行ってる連中のさ、全員一斉の成績アップとか、やっぱへんじゃない⋯⋯。誰も先生に逆らわないとか、そういう雰囲気も⋯⋯。例えばアンデッド・モンスターの王、ヴァンパイアに血い吸われて、全員下僕にされちゃってるとか⋯⋯」
「ジャック・フィニイの『盗まれた街』! なんて線もあるかな⋯⋯」
「うん⋯⋯。もう少し現実的に考えてみてもさ⋯⋯。元々CAIルームでの話でしょ? サブリミナルとか⋯⋯。洗脳とか⋯⋯。とにかく嫌な感じがするんだ⋯⋯」
そのCAIルームでの補習に、彼は引き込まれつつあるのだった。因みに緋色の成績は、猪口先生にもつけ入るすきを与えていないようだ。そして⋯⋯。
事態は風雲急を告げた。加勢というA組の生徒が、正門前に転がったのだ。大の字で!
学校側の説明会など適当に流し、三人は昼休み、早速『Xクラブ』に集った。A組の生徒の話なので、その日は亜希が主役だった。とはいえ、三人が座る位置に異動はない。
「加勢君ってね、中学ではそれなりに優秀だったらしいんだけど、ここ北蘭での成績は、イマイチ振るわなかったみたいなの。ちょうどそんなとき、E組がA組抜いたでしょ? だから俺にも補習受けさせろって、ごねてたらしいのよね。それで放課後のCAIルームに押しかけてって、例のほら、E組の結城君と揉み合いになったりして──。学校側もすぐ対応するって話だったんだけど、そうなると他にも補習希望者が続出してね。彼待ち切れなくて、今度はこっそり忍び込んで⋯⋯」
再度、刑事たちの出入りが激しくなっている。死体を発見したのは朝練にきたバレー部員らしい。