第一章 特別講師着任
黒板の桟を指でこすって、ここまだ汚れてる! などと姑みたいなことを言うのは、案外男性教師なのだ。
それゆえE組の掃除当番は、今日も一発でOKだった。ところがミュウという妙なあだ名の男子生徒、蒲生大輝の心は晴れない。と言うのが、掃除の成果の確認にきたのが、今月初めに着任した彼のクラスの副担任で、加えてここ、私立北蘭高校の売りであるCAIの『推進主任』、猪口先生だったからだ。上背のあるおとなの女性で、アラフォーの年齢を感じさせない完璧ボディ、呼びかける声も少ししゃがれたセクシーヴォイスで⋯⋯。ある意味理想の先生なのだが⋯⋯。
「それじゃ解散! でもミュウ君はちょっと残って⋯⋯。他のみんなはCAIルームへ!」
六月の着任──。当然イレギュラーな人事である⋯⋯。前任者が変死したのだ。
猪口先生も美人だったが、亡くなった坪倉先生もたいへんな美人だった。とはいえ二人は対照的なタイプで⋯⋯。
猪口先生の美貌はどこか、硬質なところがある。例えて言えばギリシャ彫刻。その年齢と相俟って、やや厳格な印象を与える。服装もカチッとしたスーツ姿。
一方の坪倉先生は美しさより可憐さが目立った、新卒ほやほやの先生だった。サラサラ・ヘアにシャンプーの匂い。つぶらな瞳。やさしい面立ち。それに服装も、ソフトコンシャスなものが多かった。『二十四の瞳』の「おなご先生」や『けいおん!』の「噂の美人教師」。そんな映画やアニメの中の、マドンナみたいな先生だった。もっともそれは、逆にウィークポイントにもなる。「頼りない」。「なめられる」。「男子生徒にヘンな刺激を与える」。そう言って批判したのが、ミュウたちE組の担任、植田だ。ミュウが所属する『Xクラブ』の部長、組も同じ織本緋色は、そうした植田の態度をこんなふうに反批判した。
「根底にオヤジのサディズムがあるけど、まず第一にご不満なのが、坪倉先生の『eラーニング推進主任』って肩書きなんでしょうね! そりゃ確かに部下なし主任だけど、植田のほうは五十にしてヒラ、私たちE組の担任ではあるけど、受験指導が厳しくなる三年時にはたぶんその担任さえ外されちゃう、『永遠の一年生担任』なんだから!」
この辛辣な女子生徒もまた、色々問題がある少女なのだが、それはさておき⋯⋯。
元々北蘭高校は、その生徒たち、教師たち、PTA、更にはOBたち、OGたちまで巻き込んだ二大陣営の微妙なパワーバランスの上に、運営されていた。かつてのエリート校の誇りを旨とする進学組。過去に縛られない積極性を重視する体育組。後者が体育組なのは、彼らがスポーツ大会などでの生徒たちの活躍や、その宣伝効果、ならびにそうした生徒たちによるAO入試中心の受験対策などを基本戦略にしているからだ。
そして、それら両陣営の冷戦構造に楔を打ち込んだのが、ミュウたちE組のマドンナ、他ならぬ坪倉先生だった。だがこのE組、北蘭冷戦構造の中ではどっちつかずのアブなっかしい小国で⋯⋯。A組はむろん進学組の中核クラス。B組も進学組。そしてC組とD組が体育組なのだが、C組に入れるかどうかは諸々の大会での順位に加え、当該競技のテレビ・ラジオなどでの放送頻度、更には大会協賛企業の多寡などがこと細かに検討される。で、問題のE組なのだが⋯⋯。ようするにゴミ箱なのだ。成績がイマイチの者、文化部所属の者(ただしブラバンは例外的にC組)、いわゆる帰宅部。ごくまれなケースでC組、D組で入学したが故障または練習の厳しさにより脱落、途中編入してくる者もいる。因みにそうした生徒たちの非行は、学校側としては織り込み済みのコスト──。A組、C組、それに「学外の方々」に迷惑をかけなければ、まあ大目に見る。
そんなクラスに新卒の女性教師が放り込まれたのだ。トラブル必至だった。が⋯⋯。先生担当の英語を中心にE組の成績が上がり始め、また、長いこと休眠していたCAIルームの運用も再開した。E組も『eラーニング推進モデル・クラス』になった。CAIルーム。据え置き型のコンピュータが霊園の墓石のようにならぶ、北蘭高校自慢の施設だ。一応は⋯⋯。同校のパンフレットに毎年登場し、更には父兄参観の定番コースにもなっているのだが、実はそれら年二回ほどの公開自体が、「虫干し」などと言われていた。そもそもCAIという名称が古い。CAI=コンピュータ支援教育の略なのだが、九〇年代以降はeラーニングという名称を用いるのが普通になっている。そのシステムをブラッシュアップし、明確な実績を挙げられるところまで持って行ったのだから、先生はまさに、北蘭のニュー・ヒロインだった。
だが悲劇は起こった。五月の連休明け、先生の姿は学校になかった。また欠勤の連絡もなかった。先生を罵る植田の口元は、誰の目にもニヤけて見えた。
「五月病ですよ! 五月病! 全く最近の若いひとは! 一ヶ月や二ヶ月がんばるだけなら、誰にだってできます! それこそたぶん、まだ学生の教生にもね! でも教育って継続でしょっ? 生徒たちと三年間、辛抱強く向き合うってことでしょっ? いやほんとは三年じゃ足りない! 一生ですよ一生! 成長期の子どもたちと関わるってことはね、一生下ろせない責任を負うってことなんですよ!」
最近の若者の責任感の欠如──。植田が作ったそんなストーリーが、先生の安否確認をいい加減なものにした。そして先生は⋯⋯。
山の手から通う生徒たちが、眉を顰め、ヒソヒソとこんな噂話を始めた。
「ねえねえあの辺り、なんかくさくなかった?」
「ええ、クリーニング屋の手前んとこでしょ?」
次第に鼻が慣らされて行く中、それでもその臭いは、どんどんキツくなって行くのだ。
「くさいっ。くさいようっ。髪にニオイ、移っちゃったようっ」
「あっちのほうのコンビニじゃもう、パンなんか買ってこれねえよなっ。オエーッ!」
そしてそれは学校にまで押し寄せてきて、駅のほうにまで流れて行って⋯⋯。とはいえ誰一人、その臭いと先生とを結びつける者はなかった。特にここE組では、そんなことをすれば先生への冒涜だと見做されかねなかった。
刑事たちが出入りするようになり、ようやく事態が明らかになった。先生はすでに亡くなっていて、ずっと自室の床に横たわっていたのだ。更に⋯⋯。
「あたしまで事情きかれちゃったよ。『その臭い、いつ頃から感じるようになりましたか?』って⋯⋯」
「何それっ? どういう意味っ?」
「ご遺体の傷み方がちょっと普通じゃないんですって⋯⋯」
「ヤダーッ!」
「そう言や部活の先輩がさ、今年はやけに蠅が飛ぶなって⋯⋯。んっ? でもあれ、まだ四月だったな?」
「ちょっとそれってどういう意味よっ?」
後任の猪口先生は、そんな状況下での着任になった。E組の副担任だけでなく『eラーニング推進主任』も引き継ぎますと、黒のスーツ姿で挨拶した先生に、当初反発する者も多かったのだが⋯⋯。更に、生徒たちから観れば不吉なことに、猪口先生は坪倉先生と同じ部屋に入ったのだと言う。大家さんに迷惑はかけられない。そういう理由だということなのだが⋯⋯。
その流れを一変させたのが一年生にして『北蘭最凶』と言われる不良、結城だった。北蘭ラグビー部期待の新星としてC組での入学が決まっていたのだが、春休み中、中学時代の所属部が無免許でのバイク暴走事件を起こし、休部⋯⋯。彼はそのあおりを受け⋯⋯。と、公式にはそういう話になっているが⋯⋯。今どきリーゼントに長ラン⋯⋯。教室では席順を無視し二人分の席を占有、机の上に長い脚を投げ出しふんぞり返って座る姿に、そんな話を信じる者は、誰一人いない。ところがその結城が、まだ坪倉先生の担当の頃からCAIルームの補習にだけは熱心に参加し、担当が猪口先生に代わってからは、補習を休もうとする生徒たちの取り締まりまでするようになったのだ。そしてE組の平均点が、A組のそれを上回った⋯⋯。場面は戻る。
猪口先生に残るように言われたミュウが、まず最初に警戒したのがその不良、結城だった。やや挙動不審気味に、ガランとなった背後の教室を探る。よかった! 誰もいない!
「あ、あの⋯⋯。補習のお話しですよね? でも僕⋯⋯」
上背のある美人教師はゆったりと腕を組み、艶然と彼を見下ろしている。
「そ、それに確か、補習は決して強制じゃないって⋯⋯。つ、つ、坪倉先生のときは、そうだったです⋯⋯。たぶん⋯⋯」
小柄な体を縮かめぼそぼそ話すミュウにたいし、先生のアルトは朗々と響く。
「もちろん。私の補習は強制じゃないわ。でももったいないじゃない、ミュウ君? 周りのみんなの成績はぐんぐん上がって行ってるのに、あなたの成績は相対的にだけど下降傾向にある。それなら他のみんなと一緒に、更なる高み、目指しましょうよ」
そのときシャーッと後ろのドアを開け放つ音がした。駄目だ! 結城がきた! だがキュッキュッと軽やかなこの脚音は? やがて先生に負けない美声が、今度はソプラノで響く。
「ミュウには今からクラブ活動があります! 私が部長を務めるクラブ、『Xクラブ』です!」




