U.25「Initial is D(前編)」
峠道を走るLA4ooの車内。
夜の山道を縫うように進む車体は、エンジン音を響かせながら次々とコーナーを抜けていく。
そのときだった。
背後から、聞き覚えのないエンジン音が聞こえてきた。
最初は遠く、小さな音だった。だが、それは徐々に大きくなり、確実にこちらへと迫ってくる。
「え、ちょっ……。何か聞こえてこない?」
助手席のテコイレィが、後方を気にしながらマスタードに尋ねた。
しかし、マスタードは答えない。
バックミラーに映るヘッドライトを見つめたまま、口元をわずかに緩めていた。
「……あれは」
そして、まるで旧友との再会を喜ぶかのように、彼はつぶやいた。
「峠の伝説……あE86トレノ。会いたかったぜ」
その瞬間、マスタードの表情が変わった。
いつもの飄々とした雰囲気は消え、瞳には獲物を見定めるような鋭い光が宿っていた。
「テコイレィ。悪いけど、ちょっと急がないといけない」
「え? 急ぐって、ちょっと――」
言い終わるよりも早く、LA4ooのエンジン音が高らかに響いた。
車体がぐん、と加速する。
「ひゃっ!?」
強烈なGがテコイレィの身体を座席へと押しつけた。
彼女は慌ててシートにしがみつき、身体が左右に振られないよう必死に踏ん張る。
「ちょっ、マスタード!? いきなり何してるのよ!」
「悪い。少しだけ我慢してくれ」
「その『少しだけ』が全然少しじゃないんだけど!?」
抗議するテコイレィをよそに、LA4ooは速度を上げていく。
だが――。
バックミラーに映るヘッドライトは、遠ざかるどころか、さらに大きくなっていた。
あE86が迫っている。
しかも、その距離は明らかに縮まっていた。
「……って、追いつかれてるんだけど!?」
テコイレィが思わず声を上げる。
対するマスタードは、むしろ楽しそうに口角を吊り上げた。
「ははっ……。そうこなくちゃな」
「いや、笑い事じゃないでしょ!」
マスタードはハンドルを握り直し、ミラー越しにあE86を見据える。
「勘違いするなよ。こっちが誘っているのさ」
「……は?」
その言葉の意味をテコイレィが理解するより早く、あE86は一気に距離を詰めた。
そして、ついにLA4ooの横へと並ぶ。
二台の車が、峠道の上で並走する。
窓越しに、互いのドライバーが視線を交わした。
マスタードの瞳と、あE86のドライバーの瞳。
言葉など必要なかった。
ほんの一瞬の視線だけで、互いに理解したのだ。
――やる気か。
――ああ、望むところだ。
次の瞬間、二台のエンジンが唸りを上げた。
峠の伝説と、LA4oo。
ここに、バトルが始まった。
* * *
先頭を走るのはあE86だった。
直線区間では、あE86がじわじわとLA4ooを引き離していく。
軽量な車体から繰り出される加速。高回転まで回るエンジンの咆哮。
その走りには、長い年月を経ても色あせない魅力があった。
「くっ……! 直線の速度は、トレノが上か!」
マスタードは歯を食いしばる。
やがて、前方にカーブが迫った。
あE86は迷いなく車体を滑らせる。
リアタイヤが白煙を上げ、テールを振り出した車体が、鮮やかなドリフトを決める。
まるで路面に描かれた見えない軌跡をなぞるかのように、あE86はコーナーを駆け抜けていった。
「うわっ……! すごい……!」
思わず見入るテコイレィ。
だが、マスタードは冷静だった。
「FFのアドバンテージは、最小回転半径を活かした小回りだ。LA4ooなら、あんな派手なドリフトをしなくても急カーブを曲がれる」
「そ、そうなの?」
「理屈の上ではな」
「最後の一言が不安なんだけど!?」
会話を交わしながらも、マスタードは前方のカーブを見極めていた。
そして――。
「ここだ!」
アクセルを踏み込む。
「うおっ!? あぶなっ!」
テコイレィの悲鳴が車内に響く。
LA4ooの車体がコーナーへと飛び込んだ。
だが、あE86のように大きく滑ることはない。
前輪が路面を捉え、車体は比較的スムーズに旋回していく。
無駄の少ないライン取り。
小さな車体を活かした、鋭いコーナリング。
カーブを抜けた瞬間、テコイレィは大きく息を吐いた。
「はぁ……。ま、曲がれた……」
「だから言っただろ?」
「言ったけど! 説明と実践の間に命の危険があるのよ!」
しかし、その成果は確かに表れていた。
コーナーを抜けた二台の距離が、ほんの少しだけ縮まっていたのだ。
* * *
「次のコーナーは急カーブだ!」
マスタードの声が鋭く響く。
前方には、山肌に沿って大きく折れ曲がるヘアピンカーブが待ち構えていた。
あE86が減速する。
次の瞬間、その車体が再び横を向いた。
慣れた動作。
迷いのないハンドルさばき。
あE86は、まるで重力さえも味方につけたかのように、コーナーを滑り抜けていく。
「またドリフト!? あの車、どうなってるのよ!」
テコイレィが驚愕する。
だが、マスタードの目はあE86の動きを追い続けていた。
そして、その表情から笑みが消えた。
「……慣性ドリフトだと!?」
コーナーへの進入から旋回、そして脱出まで。
あE86は車体の慣性を巧みに利用し、無駄のない動きでラインをつないでいた。
単に派手なドリフトを披露しているわけではない。
あれは、長年にわたって峠を走り込んだ者だけが身につけられる技術。
マスタードの背筋に、かすかな緊張が走る。
だが、驚いてばかりはいられない。
「だったら、こっちはこっちのやり方で行く!」
LA4ooがイン側へと切り込む。
前輪が路面を捉え、コンパクトな車体が急カーブを抜けていく。
旋回性能の差が、わずかな時間差となって現れた。
そして――。
LA4ooが、ついにあE86の前へと出た。
「やった! 抜いたわよ!」
テコイレィが歓声を上げる。
ようやく訪れた勝利の兆しに、張り詰めていた表情が少しだけ和らいだ。
しかし。
マスタードは喜んでいなかった。
前方を見据えたまま、静かに口を開く。
「……違う」
「え?」
「勝負は、ここからだ」
マスタードの視線の先には、峠の下へと続く長い下り坂が広がっていた。
ダウンヒル。
重力が速度を後押しし、わずかな判断ミスが致命的な差を生む領域。
ここまでのコーナーは、いわば前哨戦にすぎない。
マスタードはハンドルを握る手に力を込めた。
「ここから俺とあいつの、本当の戦いが始まる」
その声には、燃え上がる闘志が宿っていた。
けれど、不思議なほど静かだった。
まるで、これから始まる戦いの結末を知っているかのように。
* * *
「……え?」
そのとき、テコイレィが小さく声を漏らした。
車内に、聞き覚えのない音楽が流れ始めたのだ。
軽快で、疾走感に満ちたリズム。
心臓の鼓動を煽るようなビート。
そして、峠の夜を切り裂くユーロビートの旋律。
「え、なんか音楽が鳴ってるんだけど……!?」
テコイレィが困惑した声を上げる。
「気にするな。ただの
https://suno.com/song/28ab591a-e528-4cac-a4ba-9beb9a932c6c
だ。」
「いや、気にするでしょ! 今までそんなの流れてなかったじゃない!」
「いいから、しっかりつかまってろ」
マスタードは前を向いたまま、アクセルを踏み込んだ。
エンジンが咆哮する。
背後からは、再びあE86のエンジン音が迫ってくる。
ダウンヒルの始まりを告げるように、二台のヘッドライトが夜の峠を照らし出した。
そして、ユーロビートのリズムが最高潮へと加速していく。
――ここからが、本番だ。
峠の伝説と、LA4oo。
譲れない意地と、磨き抜かれた技術。
夜の峠を舞台に、二台の本当のバトーが始まろうとしていた。




