【宮の還俗と楠木正成の再挙】
一三三二年六月頃、畿内に身を隠す大塔宮が還俗し、「護良親王」と名乗った。
『山々をめぐり、国々をもよほして義兵をおこさんとくはたて給ける。』(神皇正統記)
“(親王は、)畿南の山々を駆け巡り、各地で義兵を起こそうと企てられた”
こうした動きは、まもなく持明院統や幕府の知るところとなった。
『熊野山より大塔宮令旨を執進す』(花園天皇宸記)
“熊野山から大塔宮が発した令旨(討幕命令)が送られてきた”
大塔宮から令旨を受けた熊野山は、さっそくこれを朝廷に届け出ている。
親王を奉じるのは、四条隆資・隆貞父子だった(高貴な人は、自分で書状をしたためたりはしない)。しかし、幕府は三人を捕捉できず、焦りを募らせた。
六月下旬、早くも親王の令旨に応じた竹原宗規が、伊勢に侵攻した。
『地頭兩三人打ち取られ、守護代の宿所燒かれ了んぬ。其の後凶徒引き退き了んぬ』
“地頭二三人が討ちとられ、守護代の宿所が焼かれた。その後、凶徒は退いた”
かくして、先帝の配流によって終わったかに見えた討幕計画は、護良親王によって再開
され、「元弘の乱」の第二幕が始まった。
そして、非常に心もとない事に、現在内容が分かっている「花園天皇宸記」はここまで
である。上皇が晩年まで日記を書き続けたのは確実であり、そこにはいよいよ大事な時期
が記されている筈なのだが、いかんせん、“現在発見されていない”。
したがって、「この時点から建武政権崩壊までの持明院統の動向はよく分からない」事は、
ここで断わっておく。本書では、その期間についても可能な限り迫りたい。
さて、第二幕の前半、討幕の中心は、護良親王ともう一人の武将だった。
即ち、十一月に四条隆貞を奉じて再起した楠木正成である。正成は、手始めに湯浅党を下して赤坂城を奪還し、金剛山に千早城を築いて、周囲への進攻を始めた。
十五日、この頃風邪気味の花園上皇は、天台座主(比叡山指導者)への書状にこう記す。
『昨日より門々の番衆等、鎧直垂を著し祗候す』
(尊経閣文庫所蔵文書、原漢文・「地獄を二度も見た天皇 光厳院」七〇頁)
“昨日から、門の警固役は、鎧直垂で武装している”
『関東武士も上洛遅れの間、返すがえす畏怖無きにあらず候』
“関東武士の上洛も遅れているので、返すがえす事態が危惧される”
正成の狙いは、河内周辺で暴れに暴れ、全土の呼応勢力を煽る事である。
正成は、京を恐怖に陥れ、狙いを成功させつつあった。
翌年一月十四日、正成は河内・和泉の守護代を破り、十九日摂津天王寺に侵攻した。
『其勢五百余騎、其外雑兵数知らず』(楠木合戦注文)
“その軍勢は五百騎にのぼり、その他雑兵は数知れなかった”
最早それなりの軍勢である。楠木軍は、幕府方を各個撃破しつつ、兵糧の略奪に励んだ。
二十一日、護良親王の令旨に応じ、播磨の地頭赤松円心(則村)が挙兵した。
播磨は六波羅の根拠地の一つである。ついに、足元に火が点き、京は動揺した。
『或いは関東に行幸あるべく、面々用意す、或いは山上に行幸有るべしと云々』
(二条道平公記・「地獄を二度も見た天皇 光厳院」七四~七五頁)
“帝を関東にお連れすべく、用意が行なわれ、また比叡山にお連れすべしとの意見も出た”
夜になり、重大な決定が下された。
『関東に行幸大略す』
“帝を関東にお連れする事が決まった”
この決定に焦った六波羅は、楠木を討つため、大軍勢を招集した。これを率いるのは、阿蘇治時(河内道)、大仏高直・二階堂道蘊(大和道)、名越宗教(紀伊道)である。
それに、京警護で上洛していた、新田義貞ら上野・武蔵の御家人が加わった。
『於加誅戮之仁者、可被宛行丹後國船井、不可依其身也』(楠木合戦注文)
“正成を討った者には、丹後国船井を与える。その身分は問わない”
六波羅は気付いているのだろうか。幕府は、今、長年の政策を捨てたのである。
大軍勢の南下を察知した正成は、先手を打って後退し、千早城に籠った。二十二日、河内道の軍勢が赤坂城への攻撃を開始し、閏二月一日、守将平野将監を降伏させた。
一方、吉野に向かった大和道の軍勢も、同じ日、護良親王が籠る蔵王堂を陥落させた。惜しくも親王は確保できなかったが、この軍勢も、即座に千早城の包囲に加わった。
しかし、ここまでが限界だった。金剛山の千早城には、正成が顕在である。
堅牢な山城は、大軍をもってしても容易に落とせる城ではない。
『吉き地なりけれは、左右なく打落され』(保暦間記)
“要害の地に立つ城なので、攻め寄せても打ち落された”
城からは、包囲軍に対して、次々と石つぶてが投げ落とされ、死傷者が相次いだ。
戦線の膠着に、まず遠国の御家人が倦み始めた。まもなく、播磨・伊予勢が、国元の混乱を鎮めるため、引き上げた。こうした中、新田義貞も、口実を設けて上野に戻った。