【そして刑は執行された】
一三三二年四月十四日、吉田定房は幕府に先帝の帰京を嘆願したが、退けられた。
『御帰京を免じ申すの条、何ぞ軽忽の儀あるべけんや』(吉口伝・「南朝史論考」一三二頁)
“先帝の帰京を許すのに、一体何の問題があるというのか”
二十日、そんな定房に京極為兼を重ねたのか、花園上皇が説得に乗り出した。
『定房卿を召し弘御所に於いて對面す。政道行はるべきの由を種々申す』(花園天皇宸記)
“定房卿を弘御所に呼び、対面した。政務に協力して欲しいと、懇々と説得した”
花園の説得に、さすがの定房も折れ、これ以降大覚寺統のため、政務に協力した。
定房とは違い、未来のない者もいる。五月二十二日頃、平成輔が伊豆で処刑された。
六月二日頃、正中の変以来、佐渡に流されていた日野資朝も処刑される事になった。
資朝は、動じる様子も見せず、都に残した息子国光に一筆したためた後、刑に臨んだ。
『四大本主無し 五蘊本来空なり
頭をもって白刃を傾くれば ただ夏風を鑚るが如し』(増鏡)
“万物を形作る地水火風に主君などいない。ならば、それで出来た私にも、元来主君などおらぬ。そもそも、色受想行識など仮初め、初めから存在しなかったのだ。さあ、白刃を振り下ろすが良い。私を切ったところで、姿形のない夏風を切るようなものだ”
しかし、仏教学を知らない執行人には、資朝の言う事が、まるで理解できなかった。
だからとりあえず、資朝の要望に応えて、刃を振り下ろした。
三日頃、日野俊基が鎌倉郊外で処刑された。
十九日、源具行が近江で、佐々木道誉指揮のもと、刑死した。
『武き家に生れて、弓矢とるわざにかかづらひ侍るのみ、憂きものに侍りけり』
“武家に生まれて、こうゆう役目ばかりさせられるのは、辛いものです”
道誉の言に、この地での死を悟った具行は覚悟を決めた。数日後、刑が執行された。
『消えかかる 露の命の 果ては見つ さてもあずまの 末ぞゆかしき』
“今更、命などどうでも良いが、幕府の最期をみられなかった事が残念でならない”
刑を見届けた道誉は、先日つい口にしてしまった、先帝に対する評を思い出していた。
『世下り時衰へぬる末には、あまりたる御有様にや、かくもおはしますらん』
“朝廷が衰えた時代に、なまじ器量を備えておられるから、却ってあのように過酷な生涯を歩まれるのかもしれません”
では、そのような先帝に仕えた臣下達の生涯は、どう評するべきなのだろうか。




