【脱線十・大往生】
一三三二年三月二十一日、河内で一人の老人が大往生を遂げた。京極為兼、七十九歳。
『この人已に亡ぶ。和歌弥よ廃る』(花園天皇宸記)
“為兼の死で、故伏見院と為兼が築いた正しい歌道がいよいよ廃れてしまう”
花園上皇は、近年改めて為兼の歌道の正しさを確信し、度々配所から教えを受けていた。
『近年以來の詠歌一卷、去年の比、爲基朝臣を使として泉州に遣はし見せしむ』
“去年の頃、近年詠んだ和歌一巻を、為基に持たせて和泉に遣わし、見てもらった”
十数日後、京に帰還した為基は、為兼からの言伝を伝えた。
『詠歌の趣、太以て神妙、深く此の義に達す』
“詠まれた和歌は、たいへん神妙。和歌の真義に達しておられます”
『猶少歌數の故、言句尚練習すべき事有り。意地に於いては更に以て足らざる無し』
“歌の数が少ないので、なお励んで下さい。歌を詠む志として、足らぬ物はございません”
そう言って、為兼は、花園が送った和歌の大半を合格とした。
『二三百首の歌、合點せざるの歌十首に過ぎず。尤も道に於いて爲悅』
“二三百首の和歌のうち、合格しなかったのは十首だけだった。本当に嬉しい”
察するに、一向に上達しない恋歌でも詠んで、それが不合格となったのだろう。
花園上皇の和歌のできに驚いた為兼は、為基にこう尋ねたという。
『和歌に於いては器量たりと雖も、左遷の比口傳するところ、未だ此の奧義に及ばざるのみ。幽邃に至りては尤も不審』
“院は、元々和歌にご堪能じゃったが、儂が配流された頃、院に口伝していたのは、和歌の奥義に及ばない内容じゃった。一体どうやって奥義に達されたのか、不思議じゃ”
為基が「仏教に励んでおられたからでしょうか」と答えると、為兼は膝を打った。
『然れば不審有るべからず。佛法和歌更に差別の意地有るべからざる』
“なるほど、納得いったわい。仏教も和歌も、根は同じじゃからな”
これは暴論ではない。かつて二条為世は、為兼の和歌を「一遍の念仏踊りと同類だ」と非難した。念仏と京極派。両者は、“物事をありのままに捉える”ところが共通している。それは、乱世にあっては、最も必要とされる事だった。
訃報に接した三月二十四日の日記は、妙に多弁である。
上皇の心に残るのは、もはや京極為兼だけであったのかもしれない。
先帝と親しかった二条為定(為世の孫)が出仕を止められたのは、この時期である。




