【唐崎の戦い】
去る承久の乱の折、討伐軍大将北条泰時は鎌倉の父義時に尋ねた。
『鳳輦を先立てて御旗をあげられ、御幸の厳重なることも侍らんに参りあへらば、その時の進退はいかが侍るべからん』(増鏡)
“軍勢の前に、帝の行列が立ち塞がった場合は、いかがいたしましょうか”
義時はしばらく黙考した後に答えた。
『ひとえにかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし』
“ひたすらかしこまり、帝に身を任せるように”
その上で、「帝が戦場に出てこない場合は敵軍を殲滅せよ」と言い渡した。
得心した泰時は、京への進軍を開始した。
この話は、『梅松論』にも記載されている泰時伝説の一つである。元弘の変では、後醍醐天皇が矢面に立ち、この逸話で危惧された事態が発生した。泰時のごとく、戦場の帝には手出しをしないのか、それとも刃を向けるのか。幕府は選択を迫られたのである。
『世の中の大小事、ただみなこの円基の心のままなれば』
“(当時、)世の中の大事も小事も、全て長崎円喜の心のままだった”
そして、元弘の変で、その選択を迫られたのは、長崎円喜だった。
一三三一年八月二十五日明け方、都を探索する六波羅兵は、京に残った後醍醐天皇の側近達を次々と捕縛した。万里小路宣房、洞院実世、平成輔らが六波羅に連行された。
無事だったのは、吉田定房と、隠遁中の北畠親房ぐらいであった。
さて、肝心の後醍醐天皇は、比叡山に替玉を置き、自らは大和に移動していた。
尊良親王・源具行・四条隆資・万里小路藤房・千種忠顕らがこれに随った。
二十七日、替玉に騙された六波羅の軍勢が、比叡山への攻撃を開始した。
まず、近江の佐々木時信率いる軍勢が、唐崎で延暦寺の僧兵と激突した。しかし、大塔宮・法親王尊澄を奉じる僧兵達は意気盛んで、時信は敗走した。
そのため、持明院統の後伏見法皇・花園上皇・量仁親王は六波羅に避難した。
持明院統は武家に生殺与奪の権を預けたのである。公家一統を選んだ大覚寺統、公武合体を選んだ持明院統。この時、両統の運命は、はっきりと分かれた。
この日、後醍醐は笠置寺に到着し、近隣に檄を飛ばし始めている。そのため、比叡山にいるのは替玉だという事が露顕した。大塔宮と花山院師賢(替え玉役)らは、動揺する僧兵達を放り出し、慌てて笠置に逃亡した。残された叡山は、間もなく降伏した。




