【踊る鎌倉幕府】
一三二九年三月十三日頃、鎌倉で、高野山と地頭太田信連の訴訟が行なわれた。
しかし、それは公正な裁判とは程遠いものだった。判決など、最初から決まっている。「信連の勝訴」である。なぜなら、信連が“問注所執事(長官)の一族”だからだ。
そこで、裁判に臨む高野山代表の了信は、上層部に起死回生の策を提案している。
『今年大田・桑原・春船分年貢を、一向に令向候て、御秘計有るべきや候らん』
(「高野山文書」寶簡集九、(嘉暦四年)三月十三日備後大田荘雑掌了信書状、『鎌倉遺文』三〇五三三、「鎌倉幕府の官僚制化―合理化・効率化の必要と組織運営の変化」二六頁)
“今年の大田・桑原・春船の年貢を、鎌倉に送り、引付衆への御秘計とすべきです”
『御秘計』とは、「賄賂」の事である。
同じく三月、幕府上層部のひとり、二階堂道蘊が、後醍醐天皇の退位問題を巡る両統の対立を調停するため、上洛した。しかし、その頭は、「政所執事の後任」の事で一杯だった。道蘊は執事の有力候補である。京で調整役などしている場合ではなかった。
しかし、五月十九日、後任には二階堂貞衡が就いた。そのため、腹を立てた道蘊は、幕府の指示を曲げ、持明院統に有利な工作を始めた。これを知った、金沢貞顕曰く。
『我が口において賢人の由を称しながら政所職を他人に仰せらるるの時は腹立つ、言語道
断の事に候か』(金沢貞顕書状・四三九号、「人物叢書 金沢貞顕」一一七頁)
“口では賢人と称しながら、政所職を他人にとられて腹を立てるとは。言語道断である”
一三三〇年一月、後醍醐が、来日した禅僧明極楚俊を引見した。天皇が外国人と会うのは、かの菅原道真が遣唐使を廃止して以来禁止されているので、これが問題となった。
六波羅の金沢貞将の不手際を責める意見に対し、その父貞顕は、息子をかばって気になる発言をしている。面会の手引きをしたのは安東平次右衛門入道(京極為兼を逮捕した安東平右衛門入道の後継ぎ)。入道が六波羅を通さずにやったのだ。
六波羅の統制は、緩んでいたらしい。この年、伊賀兼光が官位推挙を幕府に求めた。
『伊せハ難有御免之由被申』(金沢貞顕書状・四一四、「鎌倉政権得宗専制論」三二六頁)
“兼光の官位叙任は、許しがたい”
兼光は後醍醐との結託が疑われる人物である。安達時顕らが、これに反対した。
しかし、これにへそを曲げた兼光が六波羅への出仕を止めたため、慌てた貞顕が、これをとりなし、結局兼光の官位叙任が実現してしまった。
これらは「崩壊の兆し」と呼べるかもしれない。鎌倉幕府の最期が近付いていた。




