【関東調伏と御家人復活】
一三二六年七月、工藤貞祐が安東貞季を生け捕り、鎌倉に凱旋した。
しかし、その後も、奥羽の混乱は収まらなかった。
秋頃、後醍醐天皇が宮中で「幕府を調伏している」事を、六波羅が察知した。
情報を得た六波羅の者は、当初わが耳を疑った。宮中で帝自ら護摩を修すなど、聞いた事がない。しかし、内裏に遠慮なく出入りする京童達も、目撃しているという。
京童の好奇心も大したものである。鎌倉時代、宮中には野次馬が多く出入りしていた事が、様々な記録に残っている。儀式を行う際には、皇女らの衣装を見物しようとする者が、後を絶たなかったという。公卿も警護の者も、辟易し、既に追い払うのを諦めているi。
そんな京童は、帝に好意的だった。彼らにとって、帝は「平安京の主」である。
例え、怪僧文観の助けを借りて、怪しい調伏に没頭しようと、恐ろしくもなかった。
しかし、幕府にとっては恐ろしい。
十月、吉田定房が関東に下向した。祈祷についての説明を求められたのである。
曰く、「祈祷は、あくまで皇后の無事な出産のためです」、噂に過ぎません。
『偏以合躰之義、爲天下欲行政理』(鎌倉遺文二九六三五)
“(帝は)公武が一体となり、天下のために正しい政治をおこなう事を望んでおります”
この発言は、弁明というよりは、定房の願望だろう。
しかし、幕府は、これで矛を収めた。
むろん、帝を信じたのではない。衝突を恐れたのだ。
この時期の鎌倉幕府の鈍重さは、際立っている。「指導層の対立」と「奥羽の動乱」という二つの火薬を抱え、身動きがとれず、醜態をさらし続けるのである。
翌一三二七年には、後醍醐天皇の退位をもちかけてきた持明院統を、何と退けている。
『禁裏ただちに申し談ぜらるべきの由、仰せ下さるるの間、禁裏に申さるべし』
(「御事書并目安案 嘉暦三年量仁親王践祚事」・「人物叢書 金沢貞顕」一一七頁)
“帝が「ただちにこちらに言ってくれ」とおっしゃっているので、帝に言って下さい”
同年六月、御家人である宇都宮高貞・小田高知が、奥州に出陣した。ついに得宗家は、御内人だけでは鎮圧できないと悟り、御家人の力を借りたのである。
一三二八年十月、奥羽でようやく和議が整い、動乱は収束した。しかし、長引く混乱による損失は計り知れない。天下に晒された上層部の腐敗。主要財源地の荒廃による財政的損失ii。乱の鎮圧に活躍した御家人達は、幕府のあり様に疑問を持つようになった。




