【嘉暦の騒動―カウントダウン―】
一三二五年、奥羽の戦乱は続いていた(【儒学奨励と蝦夷蜂起】参照)。津軽安東貞季と秋田安東季久の争いに乗じて蝦夷が蜂起し、戦いは三つ巴に発展していた。
もはや泥沼である。六月六日、幕府は安東貞季を解任し、庶流の安東宗季を代官に据えた。しかし、これに不満を持った貞季は、やはりと言うべきか、徹底抗戦を続けた。
そんな状態が続く、翌一三二六年三月六日、執権北条高時が重病に倒れた。
十三日、高時は出家し、執権を退いた。
この事態に、連署金沢貞顕も出家を申し出た。
『五ケ度雖申入候、御免なく候之際、周章無極候』
(金沢貞顕書状・三七六、「鎌倉政権得宗専制論」三一八頁)
“(長崎円喜らに)五度も出家を申し入れた。しかし、承諾してくれないので困惑している”
しかし、長崎父子と摂津親鑒らは、何故か貞顕の引退を認めなかった。
十六日、貞顕は長崎高資(円喜の子・内管領)から思わぬ申し出を受けた。
『愚老執権事、去十六日朝、以長崎新兵衛尉被仰下候』
(金沢貞顕書状・三七四、「鎌倉政権得宗専制論」三一九頁)
“執権になるよう、去る十六日朝に内管領から言われた”
まさか、この歳で執権になれると思っていなかった貞顕は、大喜びで申し出を受けた。
かくしてこの日、貞顕は、さっそく「新執権として」評定に臨んだ。
一方、肝心の高時の容体は、この前後に峠を越したと見られる。
金沢貞顕の執権就任は、全く意外な出来事であった。高時には、泰家という立派な弟がいる。本来ならば、高時の子が成長するまで、泰家に中継ぎを頼むのが筋だった。
しかし、円喜にそのつもりはない。
もし、そんな事を認めれば、「得宗に限りなく近い執権」が誕生してしまう。
篤実な貞顕を中継ぎとし、高時の子邦時(生後三ヵ月)の成長を待つ。
それが、得宗家の安泰と、何よりも自らの権勢にとって、一番の選択であった。
だが、泰家は、これを不服として突如出家した。
『関東の侍、老いたるは申すに及ばす、十六七の若者とも迄、皆出家す』(保暦間記)
“関東の侍は泰家に同調して、老いも若きも皆出家した”
泰家に同調する者は、少なくなかった(今川範国も出家している・難太平記)。
長崎親子への反発が一挙に顕在化したのだろう。鎌倉は一触即発の緊張に陥った。
二十日、貞顕は六波羅の息子貞将に近況を伝え、その上で尋常でない事を頼んでいる。
『愚状等其憚のミ候。やかてやかて火中に入られ候へく候』
(金沢貞顕書状・三七五、「鎌倉政権得宗専制論」三一九頁)
“こんな書状を残していたら、おまえにも危険が及ぶ。読んだら、すぐ燃やしなさい”
この時期に、こんな手紙を、鎌倉と六波羅間で遣り取りするのは相当危険である。
「燃やせ」など、手紙を携える使者に、口上させるべき内容だった。その手段が採られなかった事実は、貞顕が「信頼の置ける側近を身辺から離したくない状況」に置かれていた事を示す。貞顕は、いつ暗殺されてもおかしくない窮地に追い込まれていたのである。
同日、京で皇太子邦良親王が病死した。正中の変に付け込んで、天皇の座を得ようと画策していた矢先だった。図らずも大覚寺統内の旧後宇多法皇派は弱体化した。
『今こそ此天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ』(神皇正統記)
“今こそ、天が帝(後醍醐天皇)の皇統を、正統だと定められたのだ”
二十六日、金沢貞顕は、鎌倉と京の政情を危ぶみ、遂に出家を決意した。僅か十日の執権職だった。『保暦間記』は、「安達時顕が北条泰家に同調したため」とだけ記す。
時顕は、何故泰家を支持したのか。理由は、邦時の母が、御内人の娘だったからである。
『城務一門、御産所にも太守にも見えず候ひつ』
(金沢貞顕書状・三六八号、「人物叢書 金沢貞顕」二〇九頁)
“(長子邦時が誕生した時)安達時顕一門は、産所にも、得宗にも顔を出さなかった”
邦時が成長すれば、御内人の天下。平頼綱の時代が再現されてしまう。
時顕の行動は、ひとえにこれを恐れての事だったのである。
二十九日、騒動もようやく沈静化し、工藤貞祐(御内人)率いる追討軍が出羽に派遣された。幕府の財源地奥羽を、いつまでも放置するわけにはいかなかったのである。
四月二十四日、赤橋守時が執権、大仏惟貞(【鎌倉と六波羅】参照)が連署に就いた。「最後の執権」守時は、極楽寺流の嫡流で、一門の次席である。しかし、これが貧乏くじである事は、誰の目にも明らかだった。翌年に惟貞が亡くなった時、連署は空席とされた。
七月二十四日、その幕府の圧力で、持明院統の量仁親王が皇太子となった。
これによって、長期に及ぶ後醍醐天皇の政権は、一転して崩壊の危機に立たされたのである。後醍醐は焦りを強め、一度は頓挫した討幕計画を、再び画策し始めた。




