【関東は戎夷なり】
一三二四年九月二十三日、権中納言万里小路宣房が鎌倉へ発ち、後醍醐天皇に累を及ぼさぬための交渉にあたった。その際、宣房は、天皇から幕府への誓紙を携えていた。
花園上皇の聞いたところ、そこには、こう書かれていたという。不可説不可説。
『關東は戎夷なり。天下の管領然るべからず。卒土の民は皆皇恩を荷く。聖主の謀叛と稱すべからず。但し陰謀の輩有り。法に任せ尋ね沙汰すべき』(花園天皇宸記)
“そもそも、関東の幕府など、天下を管領する資格もない蛮族である。我が民は、みな天皇の恩を受けている。こたびの事を、「帝の謀叛」などと思いあがるな。但し、討幕を企てた廷臣については、朕は寛大な心でその者を法で裁くことを許そう”
鎌倉に着いた宣房は、誓紙を読んだ長崎円喜・安達時顕から厳しい追求を受けた。
『出仕の時、彌臆病の氣有り、時顯を恐れ忽ち退座し、板敷に下る』
“宣房卿は怯えた様子で出仕し、時顕を恐れるあまり退座し、縁側の板敷まで下がった”
幕府は、帝への不信を一気に強めたのである。当初、宣房はこれに震え上がったが、やがて違和感に気付いた。妙だ。何故叱責するだけで、帝の退位を要求してこない。
表面上は高圧的だが、その実腫れ物に触るようなこの対応は、一体何なのか。
『あなたざまにも、宣旨を受くる者のありけるなめり』(増鏡)
“関東にも、帝から宣旨を受けた者がいたようだ。”
後醍醐の手は幕府中枢にも及んでいたらしい。へたに追い込めば、誰の名が出てくるか分からない。円喜らの懸念はそれだった。あの誓紙、帝は手の内を見透かしている。
宣房もこの空気を読み取った。そうか。奥羽の騒乱と内輪揉めで、朝廷と本気で遣り合う余裕などないらしい。宣房の目が細まった。ならば、この交渉、乗り切れる。
交渉は成功した。幕府は“陰謀などなかった”という見解を出したのである(花園天皇宸記)。大役を果たした宣房は、この功により権大納言に昇進した。
十月二十九日、懲りない後醍醐は顕職希望者を登用した。その際、政治論文を書かせ、眼鏡にかなった者四名を抜擢した。のんきに、宋の役人試験の真似事だった。
帝は何の反省もしていない。十一月十六日、ようやく失敗を悟った幕府は、金沢貞将(貞顕の嫡子)に「五千騎」を与え、六波羅南方に赴任させた。
更に、十二月、室町院領問題(【末代の英主】参照)で、一転して持明院統に肩入れし、「何の変更も加えない」という裁決を下した。
翌年二月、日野資朝が佐渡に流され、日野俊基が京で籠居となった。




