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【弘安徳政】

一二八四年五月二十日、安達泰盛の主導で、「弘安式目三十八ヵ条」が提出された。この中では、①「寺社や貴族の土地に対する調査・軍役の徹底」・②「蒙古と戦った者の御家人への取立て・寺社の復興」・③「越訴(裁判のやり直し)の奨励」が謳われている。 

これは、あくまで“意見状”だったが、「幕府が全国政権となる一方、新たに支配下に入る者に対して、相応の保護を行なう方針」が検討されるようになったのであるi。

 果たして、こんな大改革が成功するのだろうか。しかし、勝算はあった。この年、安達一門は、六名が評定衆・引付衆(幕府重臣)に名を連ねている。評定衆・引付衆は三十名であり、北条一門ですら八名だった。金沢顕時(娘婿・金沢実時の子)ら友好的な評定衆・引付衆を抱き込めば、勝負ができる。泰盛五十三歳は、これを最後の好機と捉えた。


更に、同日、「関東御領の確認把握」を命じる関東御教書が出された。「関東御領」とは将軍家直轄領の事である。しかし、当時、その大半の運営は、地頭職をもつ得宗家が行なっていた。即ち、泰盛は“得宗領の調査”に手をつけたのである。

幕府の目が届かない「領地」からの収入、海上統制を無視して全国を航海する「得宗分国の船」は、得宗家の財政を潤していた。無論、御内人らの懐も、であろう。

「将軍は全国の武士を統括する。政務は得宗がする。だからこそ、得宗家は清廉でなければならない」。泰盛の考えは、理に適っている。しかし、正論とは得てして反発を招く。 

内管領(御内人筆頭)平頼綱らは、収入源が暴かれる事を恐れ、強く反発した。


両者の対立は、六月に「関東御領の管理・決裁方法」を定める事書が発された前後から激化した。まず、有力御家人の足利家時が自害した。家時は、泰盛や極楽寺流(塩田義政の一族)と懇意の人物だった。二十二日には、六波羅南方の北条時国が捕縛された。

そんな中、七月七日、北条貞時がようやく執権に就いた。貞時の外祖父は安達泰盛である。だが、傅役は平頼綱だった。これで立場を強めたのは、本来陪臣(家来の家来)に過ぎない頼綱の方だろう。八月には、陰謀があったとして、北条時光が土佐に流された。

そして、十月二日、北条時国が配流先の常陸で殺された。

『打手は平左衛門尉』(平岡定海氏所蔵『東大寺別当次第』・「新・中世王権論」一九一頁)

“討ったのは、平頼綱である”

時国は、吉良満氏(足利一族・越前守護)の娘を正室とする安達派だった。そこで頼綱は、時国と仲の悪い北条宣時(大仏)らを抱き込んで、消したのである。

しかし、泰盛は、次々と新法令を出すのを止めない。泰盛は真の政治家だった。

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