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【天の夢 地の道】  作者: ヒデキ


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【時宗の死】

一二八三年四月、北条業時(普音寺・極楽寺流)が長年空席だった連署に就任した。

時宗は何を思って連署を復活させたのか。おそらく、弟達の相次ぐ死が、これに関係している。北条宗頼が一二七九年、北条宗政が一二八一年に、兄に先立っていた。

宗頼は、長門に派遣され、元寇時には時宗の分身を務めた弟である。また、宗政は、鎌倉で長年補佐役を務めた弟である。とりわけ、宗政の死が、時宗を打ちのめしていたi。

『なのめならぬ御なげきにて候』(金沢文庫古文書・四三三七号、『人物叢書北条時宗』二四六頁)

“(宗政様が亡くなった時は)尋常ではないお嘆きようでした”

時宗は、寂しくなった周囲を固める必要を感じ、連署を復活させたと思われる。


しかし、その時宗も一二八四年四月四日に亡くなった。二度にわたる元寇を戦い抜き、安達泰盛と平頼綱らの対立を抑えていた若き指導者は、たび重なる心労のためか、わずか三十四歳で死去した。泰盛をはじめとする上層部十数名が、一度に出家した。

また、朝廷の亀山上皇は、四ヵ月間諸国の殺生を禁じた。これは異例の事であった。

この時、泰盛は「陸奥守」の位を返上し、五番引付頭人(なんと五番は、頼朝の墓の管理ができる)の地位を息子宗景に譲っている。自分の政治思想に対しても、ある程度の理解を示してくれた執権の死は、泰盛にとっても痛手だったのだろう。

ただ、評定衆には留まっているので、幕政を退いた訳ではない。

時宗は三月末に倒れ、わずか数日で亡くなったという。そのため、北条一門の中には「自分こそが次代の執権・連署になれるかもしれない」と色気を見せる者も現れた。

例えば、四月十七日に六波羅北方の北条時村(故政村の子)が関東に入ろうとしたが、三河で平頼綱の命を受けた者らに止められ、京に引き返している。


しかし、泰盛と頼綱には、執権の地位を、北条一門の手に渡す気など毛頭なかった。一

門を執権に就ければ、得宗家に対するわざわいとなり得たからである。

執権職を継ぐべきは、あくまで嫡子貞時とされた。若干十四歳の貞時が執権職に就くまでの数ヵ月間、幕府では、連署業時のみを置くという異例の措置が採られた。

そのため、五月三日に出された「諸国の一宮・国分寺の由緒、管轄者、所領の調査を命じる」法令は、“連署が将軍の意を奉じる”という、妙な法令になっている。

そして、この法令を主導したのは、泰盛だった。泰盛は、仲が悪い平頼綱と協力して貞時の執権就任への布石を打ちつつも、公然と「行動」を開始したのである。

北条時宗の死によって、泰盛と頼綱を止められる者がいなくなった。

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