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【脱線三・竹崎季長一代記】

『むまもいられずして、ゐてきのなかにかけいり、みちやすつつかさりせは、しぬへかりしみなり』(蒙古襲来絵詞)

“馬を射られず、そのまま敵中に駆け入り、白石通泰殿が駆けつけなければ、死んでいた”

一二七四年の「文永の役」において、肥後国御家人竹崎季長は、僅か数騎の配下と共に蒙古軍に突撃した。身の危険など考えなかった。ただ一身に敵を追った。


 しかし、幕府から下された感状には、その事が一切記されていなかった。「季長主従が傷を負った」とだけある。季長はいたたまれない気持ちになった。自分達は、ただ深手を負ったのではない。先駆けをしたのだ。幕府への注進(報告)に漏れたのではないか。

 一二七五年六月三日、季長は中間の弥二郎と又二郎だけを連れ、鎌倉へ旅立った。見送る親族は誰一人いない。皆、制止を聞かなかった季長を見捨てたのだ。所領を持たない季長には、僅かな路銀しか用意できない。しかも、その路銀すら、馬と鞍を売って工面した。

 八月十二日、季長は鎌倉に着いた。まず、鶴岡八幡宮に詣で、武運長久を祈る。

『ちうけん一人はかりあひくして』

従う中間は、一人しかいない。一人は、道中で逃げたのだろう。しかし、季長は、蒙古襲来絵詞の中で、逃げた中間がどちらなのかを敢えて記していない。

竹崎季長とは、そういう人だった。


 二ヵ月経った。季長の訴えを聞く奉行は一人も現れなかった。貧乏御家人の訴えなどに、誰が耳を貸すというのか。面会すら、満足にしてもらえなかった。

 十月三日、思い余った季長は、御恩奉行安達泰盛に対して庭中(直訴)に及んだ。泰盛は季長の言葉にも耳を傾けてくれた。そして、的確で無駄のない尋問を開始した。

「注進の内容も知らないのに、何故それに漏れたと申す」「小弐経資から、先駆けの事は報告するので感状にも載るだろうと聞いていましたが、載らなかったからです」

「もし不審が残るのでしたら、小弐景資(経資の弟・証人)へ御教書でお訊ね下さい」「御教書で問い合わすなど、先例がない」「あるとも思えません」「これは異なことを」「異国との合戦に、先例はありません」「仰せはもっともだが、訴訟は先例がなければ成立しない」

泰盛の反応は、冷淡とはいえない。現代の裁判でも、手続きは重んじられている。 

しかし、泰盛はそう言いながらも、季長の発言を、決して遮らなかった。

『ちきにくゑんしやうをかふり候はんと申そせうに候はす。さきをし候事御たつねをかうふてきよたんを申あけ候はは、くんこうをすてられて、きひをめさるへく候、しつしやうに候ははけんさんにあかりいり候て、かせんのいさみをなし候はむ申あけ候』

“私は、すぐに恩賞をいただこうと直訴に及んだのではありません。「先駆け」の事を景資に訊ね、嘘だと判明したら、勲功を捨てられ、首を刎ねていただいて結構です。事実と判明したら、功を披露していただき、合戦の勇としたいと申しているのです”

そう繰り返す季長の言葉に、偽りがない事を見抜いたのだ。竹崎季長という一途な御家人をここまで思い詰めさせた原因は、他ならぬ幕府にある。泰盛はそれを理解していた。

それに、嘘と分かれば首を刎ねてくれと言う、この男を、泰盛は気に入った。

『御かせんの事うけ給はり候ぬ、けんさんにいれ申へく候』

“御合戦の事は承知した。見参に入れよう”


その晩だろうか、泰盛は、大勢の家来達がいる席で季長の事を話し、こう評した。

『きいのこハものな』

“奇異の強者である”

『こ日の御大事にもかけつとおほゆる』

“後日の大事にも、駆け付けるだろう”

四日、泰盛に仕える同郷の者からこれを聞いた季長は、この言葉を生涯の誇りとした。

 十一月一日、季長は、泰盛から御下文(新領の安堵状i)を手渡された。恩賞百二十名の中、直に手渡されたのは季長一人だった。帰国する季長に、泰盛は栗毛馬を贈った。


 一二八一年六月、「弘安の役」。季長は家来を志賀島に派遣し、自らは島津久長の配下達と小舟で敵船に乗り移ろうとした。事前に、河野通有から船戦について教わっての行動だった。漕ぎ手が怖気づいて移れなかったが、季長は肥後国で一番の戦功者とされた。

そして、閏七月五日、風雨で大打撃を受けた蒙古軍への追撃が開始された。しかし、季長には、軍船がない。このままでは、追撃に参加できぬ。焦る季長の前を、安達盛宗の旗を立てた大船が通った。しめた。季長主従は、配下と偽って、船に乗り込んだ。

だが、途中で船を降ろされた。どうする、端舟(小舟)で揺られていては後れをとるばかりだ。すると、今度は“たかまさ”という人の船が、近くを通った。よし。「守護殿が仰せである、船をよせられよ」。たかまさの船が近づいてきた。「守護などいないではないか。船を退けよ」「乗せていただこうと、そう申したのです」「この船には、もう余裕などない」

しかし、季長は手を擦り「私一人だけでも乗せてくだされ」と懇願する。

『戦場のみちならては、何事にかたかまさにあひて、こんはう候へき、めされ候へ』

“戦場の道でなければ、このたかまさに、これほどまで懇望されまい。お乗りくだされ”

 こうして、一人たかまさの船に移った季長は、兜を家来に預けたままだった。

仕方なく臑当てを外し、額に結び合わせる。その様子を見るたかまさに、季長は言った。

『いのちをおしミ候てしと候とおほしめさるましく候。敵船にのりうつり候まて、と存候てし候、ふねちかつき候へは、くまてをかけていけとりにし候とうけ給候。』

“命を惜しんでいるとは思わないで下され。敵船に乗り移るまでの事です。船が近付けば、

熊手を掛けて生け捕りにしてくると聞き及んでいます”

『いけとられ候て、異國へわたり候はむ事、しにて候はむにはおとるへく候』

“生け捕られて、異国に連れていかれる事は、討死に劣ります”

たかまさは、思わず溜息を洩らし、申し訳なさそうに季長をみた。

『ふかくつかまつりて候。野中殿はかりはのせたてまつるへく候つる物を』

“不覚を致しました。せめて、野中殿(季長の親類)だけでも共に乗せるべきでした”

たかまさは、近くにいた若党の兜を、季長に渡そうとした。

『かふとをきられ候はてうたれ給候なは、季長ゆへに、と妻子のなけかれ候へ』

“兜をかぶらなかったせいで若党が討死したら、季長のせいだ、と妻子が嘆くでしょう”

季長は、その申し出を丁重に断った。

 しばらくして、たかまさの船は、敵の船団に追い付いた。季長は、たかまさ達と共に敵船に乗り移っていく。激闘の末、みごと船の指揮官と思しき人物の首をとった。


 明くる六日、季長は、軍奉行合田遠俊の仮舘を訪れ、合戦の次第を報告した。

『自舩候はて、一度ならすかり事のみおほせて候て、ふねふねにめされ候て、御大事にあはせ給候御事は、大まうあくの人に候』

“船もないのに、度々虚言を用いて船々を移り、追撃に加わるとは。大猛悪の人である”

遠俊はそう言って、証人になる事を快く引き受けてくれた。時に季長、三十六歳。


 一二九三年二月九日、季長は蒙古襲来絵詞の奥書を執筆していた。

当時、「絵詞の作成」は上流貴族や大寺院だけができる大事業である。

しかし、季長はそれを成し遂げなければならなかった。

『又々君の御大事あらん時は、最前にさきをかくへきなり。これをけふのことすへし』

“私は、将軍に危機が迫る時、何度でも先頭を駆けてみせる。これを今日の誓いとする”

安達泰盛が殺されたのである。

後世、絵詞を見た人は、泰盛と季長を武士の鑑とした。季長の生存は、一三二四年まで

確認できる。したがって七十九歳以上の長寿だった。季長は天に愛されていたらしい。

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