【三者三様】
一三五一年三月三日、細川顕氏が上洛した。四国勢を率いて直義の勝利に貢献した顕氏は、意気揚々と将軍邸に向かった。待っていたのは一喝であった。
『爲降人身見參稱有恐』(園太暦)
“降人の分際で、わしに見参とは何事か”
将軍足利尊氏は、顕氏に会おうともしなかった。
『顯氏恐怖』
“顕氏は恐怖に震えた”
『今度上洛已後初現此氣云々』
“今度の上洛で、はじめて畏怖の念を見せた”
細川顕氏は、これ以降、次第に直義派から距離を置いた。六日、顕氏は丹波の義詮を迎えにいくため、京を出た。その軍勢は、気を取りなおしたかのように猛々しかったという。
『今日將軍向錦小路亭』
“本日(同じく六日)、将軍は弟直義殿の邸に行った”
『響應慇懃、兩人頗快然』
“丁寧な響応が行われ、二人ともすこぶる上機嫌だった”
『但師直等事聊將軍夏者』
“但し、師直らの(誅殺の)ことを将軍は御立腹であった”
事起こらず、宴が無事終わった時、諸将は皆一様に肩を撫で下ろしたという。
そもそも、尊氏は弟直義に天下を譲っている。
『大御所はおぼしめし忘給はで』(難太平記)
“大御所(尊氏)は、その事を十分わきまえ、お忘れにならなかった”
『大休寺殿より寶篋院殿へうつくしく天下をゆづり與申させ給へかし』
“(だから、)直義様が義詮殿に、天下を美しく譲る事を望んでおられた”
『師直。師泰うたれしをも大御所はとがめ申させ給はざりき』
“(その方便ゆえに)師直・師泰を討たれた事も咎められなかったのである”
十日、丹波にいた義詮がようやく京に戻った。
『□□參錦小路殿。次□參將軍亭』(観応二年日次記)
“義詮殿はまず、錦小路殿(直義邸)に行った。その次に、将軍邸に行った”
義詮は丹波で最後まで戦意を見せていた。帰京に際し、叔父直義に配慮したらしい。