【運命の日】
一三五一年二月二十六日、雨。この日は、足利兄弟にとって運命の日となった。
『今日爲御訪諸人群參善法寺殿云々』(観応二年日次記)
“諸人が続々と善法寺に参じた”
足利直義の陣。今、天下の権を握ったかに見えた男の陣営は、悲しみに沈んでいた。勝った“今”、若君が亡くなってしまった。直義、時に四十四歳。当時にあっては、第一線を退くことが求められる年齢である。しかも、謹直なこの男は、正室渋川氏しか愛さない。
『彼女性年齢四十二、初所生云々』(中院一品記)
“(一三四七年六月、渋川氏が如意丸を産んだ時、彼女は四十二歳で、初産であった”
つまり、この時点では四十四歳であった。おそらく、後継ぎはもう産まれまい。直義に従う諸将のうち、先の見える者は、目の前が閉ざされたことに気付いた。
無情な雨が、善法寺に向かう諸人を濡らし続ける。
同じ頃、兵庫の足利尊氏は、帰京のため兵庫を発とうしていた。
『執事越州等欲令供奉』
“執事高師直・師泰兄弟は、将軍のお側に連れてほしいと訴えた”
だが、尊氏は答えなかった。
『以秋山新藏人被申云』
“秋山新蔵人がこれに答えた”
『執事越州等供奉之絛見苦歟云々』
“お側に連れてほしいだと。見苦しい”
師直と師泰はうなだれる他なかった。将軍尊氏の軍列は高兄弟を置いて進発した。
三里ばかり後陣を、高一族が従う。この時、師直は禅律僧の黒衣を着し、師泰は念仏僧の衣を著したという。二人はすでに出家し、政治的な死を迎えていた。
だが、それでおさまらない者がいた。武庫川・鷲林寺前。上杉能憲の軍勢が高一族を遮った。能憲の父は上杉重能。二年前の十二月、越前で高一族に殺された。
『軍兵五百騎許を令指揮待儲』
“能憲が、軍兵五百騎ばかりを指揮し、待ち受けた”
高師直・師泰・師兼(師直いとこ)・師夏(師直の子)・師世(師泰の子)が討たれた。その他、親類家人数十人が誅された。災難だったのは、同行した文阿弥・正阿弥である。兄弟の出家を助けたばかりに彼らも死んだ。将軍の列は前進を続ける。雨が止もうとしていた。