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【摂津打出浜の戦い】

一三五一年一月十七日、須沢城の高師冬が、抗しきれず自害した。直義派が関東を抑えた。

同日、直義は持明院統に二階堂行珍・宇都宮景泰を送り、院に世上騒擾を謝した。

『京中事高経に仰せ付く、彼に仰せ下さるべき』(園太暦)

“今後、京中のことは斯波高経を通じておっしゃって下さい”

兄を退けた。八幡から一歩も動かず。直義は、今優位にあった。この日から翌十八日にかけ、直義は夢窓疎石を介して密かに等持院祖曇和尚を送り、兄尊氏と和睦を交渉している。直義の敵愾心は、高師直・師泰に対して向けられ、兄は奉ずべき将軍のままであったようだ。

十九日には、今回の戦乱で難治ではと、光厳上皇に供御料三万疋を献上しているi。崇光天皇は、これに対して勅使を遣わし、直義による平和の回復を嘉している。

『執政の仁に付せざるは如何』

“執政の仁(要するに自分)を通さず献上とは。いかがなものか”

そう憤る者もいたが。京を抑えるやいなやの院との直接交渉。直義は既に南朝に下った筈である。しかるに、今、北朝を懐柔した。直義の狙いは何か。

三十日、直義は、南朝との交渉のため、長井広秀らを賀名生に遣わしている。直義の狙いは「両朝の和談」であった。


同日、足利尊氏の明智頼重・土岐氏光宛書状より。

『そなたの事ハ、いかうたのミ入て候』(足利尊氏自筆御内書(小切紙)土岐家文書 土岐實光氏蔵、上島有『足利尊氏文書の総合的研究写真編』八十二頁)

“明智殿・土岐殿の事は、一向頼みにしている”

『このころハ、そら事をかたきのかたにつくり候て、ひろうし候なる、心えられ候へく候』

“近頃、直義陣営によって虚報が流布されているが、気をつけてほしい”

虚報どころか、今や尊氏の劣勢は明らかである。現に、播磨国・書写山に籠城している。

『いそきしょハうよりつめあハせ候て、兵衛督入道直義をちうハちし候へく候』

“一刻も早く、美濃の軍勢を集め、直義を討ってもらいたい”

『猶ゝそなたの事ハたのミ入て候』

“くどいようだが、そなたらの事を頼みにしている”

だが、尊氏陣営には石見から没落した高師泰が合流するのみで、明智も土岐も来なかった。


今、尊氏は窮地にある。室町幕府は二つに分裂し、その大半は弟に着いた。後年、今川了俊(父今川範国が直義派として活躍)は、当時の諸将の心理をこう弁解している。

『大休寺殿は政道私わたらせ給はねば捨がたし』(難太平記)

“直義殿は、政治を主導されたが、私曲がなかった”

『大御所は弓矢の將軍にて更に私曲わたらせ給はす。是また捨申がたし』

“大御所(尊氏様)は将軍で、そのうえ政務において私心がない。これも捨て難い”

将軍も御舎弟も悪くない。強いて言うなら、将軍に張り付く執事が諸悪の根源に見えた。


 四日、師泰軍を吸収した尊氏軍は書写山から攻勢に出た。即ち、南西の光明寺龍野城を攻めたのである。龍野城は山陽道に位置し、石塔氏が兵を入れていた。要所である。

だが、尊氏の行動は不可解であった。何故、劣勢の軍勢で「書写山」の地の利を捨てる。仮に龍野城を落として山陽道を掌握したところで、その軍勢は僅か。北九州を直冬が抑える状況では、西からの援軍は期待できない。北の山陰では敗れた。南の四国・河野通盛も応じない。東の京方面からは直義派の大軍勢が迫る。尊氏はまさに袋のねずみであった。近江・京を東から突く、美濃方面への工作に失敗した時点で、尊氏の戦略は詰んでいた。

 案の定、龍野城を攻めた尊氏・師直軍は攻めあぐね、動けなくなった。


五日、直義が長井広秀を賀名生に派し、南朝に銭一万疋を献上した。

『御和睦篇目等數ヶ條被申之云々』(観応二年日次記)

“和睦に関する編目数ヶ条が議された”

この数ヶ条については、後日、突っ込んだ議論が行われるので、今は置いておく。

十三日、奥州でも、奥州管領・吉良貞家が、同じく管領を務めた畠山高国・国氏父子(高師直派)を攻め、岩切城(仙台市)で自害に追い込んだ。

奥州・関東・京・九州。最早、日本全土を直義派が席巻しつつあった。


十五日、関東から上杉能憲(重能の養子・憲顕の子)らの大軍が上洛した。

『上杉左衛門蔵人をもって海道より上洛を企て候』(醍醐寺報恩院蔵古文書録・乾 観応二年正月六日石塔義房書状、岩波新書・歴史学研究会編・日本史史料[2]中世二四七頁)

“上杉能憲の軍勢を海路から派遣し、上洛を企てております”

この派兵は、甲斐国・須沢城の高師冬討伐と並行して進められた関東・直義派の切り札であった。これにより、直義は、尊氏・師直に対して圧倒的な優位に立った。


まもなく、細川顕氏の四国勢が書写山を突いた。更に京方面から、畠山国清・石塔頼房・小笠原政長そして上杉能憲らの大軍が肉薄した。尊氏は龍野城攻めを諦めざるを得なかった。

『外へ瀧野を引却て懸河へ被移云々』(観応二年日次記)

“将軍は龍野を退却して、懸河へ移った”

迎え撃つしかない。十八日、尊氏・師直は摂津国・兵庫に進み、打出浜で直義軍と激突した。

世に「摂津打出浜の戦い」という。


『將軍勢二千餘騎云々』

“将軍の軍勢は二千騎だった”

直義派の大軍勢に対し、尊氏が率いる軍勢は僅か二千騎。勝つには、二千で敵を突破し、京に向けて進軍する他ない。だが、その可能性は皆無に等しい。

にもかかわらず、この戦いで尊氏は全体の四分の一にあたる五百騎を突貫させている。

『其内或令降参。八幡方或及打死之間彼五百騎勢雖一人不歸將軍方』

“その全員が、直義軍に投降するか、討ち死した。将軍の本陣に戻る者は一人もいなかった”

異常ともいえる、尊氏の用兵に、直義軍からも多数の死者が出た。

『両方の命を殞する者数百人』(園太暦)

“両軍の戦死者は数百人に及んだ”

こんな愚かな戦いはなかった。両軍はひたすら消耗し、戦場には死屍累々が築かれていく。

激戦は終日続いた。やがて、尊氏軍中核の高師直が股に、高師泰が頭部と胸部に負傷した。

『流血以ての外にて力を失ふ体也』

“高師直らは自らの流血がひどく、戦意を失った”

ついに、さしもの尊氏軍の攻勢も止まった。


十九日白昼、雨が降った。翌二十日、雨が甚だしくなった。八幡の直義本陣に尊氏から使者が送られた。使者・饗庭氏直は講和を求め、二十一日にかけて三度使者の往来があった。

『執事越後守兩人令出家了』

“執事高師直と高師泰の両人を出家させること”

『可被助命候者。召具彼兄弟可令出洛云々』

“助命するが、かの兄弟を上洛させること”

かくして、高師直・師泰一族の「出家」を条件に和睦が成った。直義の勝利である。


『夜中初夜之時分に若御前逝去云々』

“二十五日夜中、初夜の時分に(直義殿嫡男の)如意丸様が逝去された”

雨陣の死。三歳であった。勝利に沸く直義の陣は、一気に静まり返った。

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