【勝利のあとの撤退】
一三五〇年十二月二十六日、石見の高師泰が遂に撤退した。もはや山陽・山陰を固める情勢ではなかった。京へ戻らねば。二十九日、足利尊氏は備前福岡の陣を払い、軍を返した。
関東。石塔義房勢によって足利基氏を失った高師冬は、相模から甲斐に逃れた。
『播磨前司は甲斐国逸見城に楯籠ると云々』(醍醐寺報恩院蔵古文書録・乾 観応二年正月六日石塔義房書状、岩波新書・歴史学研究会編・日本史史料[2]中世二四六~二四七頁)
“高師冬は甲斐国・逸見城に籠城しました”
一三五一年一月四日、その師冬を直義派が追撃する。
『上杉兵庫助数千騎の勢を率い発向す』
“上杉憲将数千騎が甲斐に向けて発向しました”
直義派の諏訪直頼がこれに呼応し、まもなく須沢城に逃れた師冬を包囲した。
七日、畿内。直義が山城国八幡に布陣した。十三日、北陸勢も比叡山に着陣した。
『西坂下宮方軍勢幷北國桃井軍勢等數里に出來て。數里の在家燒拂了』(観応二年日次記)
“西坂本に、宮方の軍勢と北国の桃井直常らの軍勢が来て、周辺の家を焼き払った”
東・近江坂本陣:桃井直常(越中守護)・南朝勢
西・山城八幡陣:石塔頼房(伊勢守護)・畠山国清(河内・和泉・紀伊守護)・細川顕氏(四
国勢)・斯波高経(足利一族・越前前守護)・今川範国(駿河守護・了俊の父)・上杉朝定
京が包囲された。内応者が続出した。十四日夜、義詮は直義に通じた須賀清秀の邸を急襲し、驚いた内裏の崇光天皇は仙洞持明院殿に逃れている。十五日早朝、孤立した義詮は京を出奔した。向かう先は父のもとしかない。義詮は父から厳命された光厳上皇らの護衛も果たせず、逃げた。昼頃、桃井直常が入京した。直常は諸将邸宅を焼き払い、仙洞持明院殿に参上した。
その伺候の最中、尊氏・義詮が、京攻撃を開始した。桃井め。
『兩方軍勢衆合て一千五六百騎を引率して馳入洛中』
“(将軍千騎・義詮殿五百騎の)両軍合わせて千五六百騎が、京に突入した”
尊氏軍に高師直らが、義詮軍に佐々木道誉らが従う。三条河原で合戦となった。
『将軍自分被懸入之間桃井之軍勢等山門に引登云々』
“将軍自らが突撃を仕掛けてきたため、桃井勢(と延暦寺僧兵ら)は比叡山に逃れた”
尊氏は辛勝した。だが、京周辺は直義派が固める。これ以上の攻勢は不可能であった。この時、勝ってなお、千葉氏胤(下総守護)・小笠原政長・山名時氏(若狭・丹波守護)らが直義方に転じている。十六日、尊氏らは丹波を経て播磨に逃れた。京は直義が抑えた。