【湯山事件】
一三五〇年十一月二十九日、南朝に接近して勢いを得た足利直義は、兄尊氏に使者を送り、高師直・師泰の身柄の引き渡しを求めた。だが、その使者は師直に捕えられた。
師直が張り付く限り、兄との連絡は不可能。そう悟った直義は、京の制圧を優先した。
十二月一日、関東でも分裂が始まろうとしていた。
『上杉戸部鎌倉を立ち上野国に下向す』(醍醐寺報恩院蔵古文書録・乾 観応二年正月六日石塔義房書状、岩波新書・歴史学研究会編・日本史史料[2]中世二四六~二四七頁)
“上杉憲房が鎌倉を発ち、(息子能憲が挙兵した)上野国に下向した”
憲房は尊氏・直義のいとこである。鎌倉府執事を務め、上野・越後の守護であった。その離脱に、もう一人の鎌倉府執事である高師冬(高師直派)は大いに動揺した。
一方、京では、直義派の軍勢が京に迫ろうとしていた。
『錦小路殿御手石塔殿入八幡社頭』(祇園執行日記・佐藤和彦「バサラ大名の虚と実―佐々木導誉の場合―」一四五頁)
“七日、直義殿に味方する伊勢守護・石塔頼房が八幡社に入った”
諸将は揺れ、大きく直義に傾いた。なかんずく、十三日、南朝が直義の降服を容れている。
『綸旨畏拝見仕了、任勅定、可致忠節候、恐々謹言』(観応二年日次記)
“(後村上天皇の)綸旨拝見致しました。勅に従い、忠節を致します”
南朝を味方にした直義は、一気に勢力を盛り返した。かねて直義派だった讃岐守護細川顕氏・越中守護桃井直常らが挙兵した。彼等は、任国から一路京を目指し、進軍を開始した。
二十一日、満を持した直義は畠山国清を従え石川城を発し、天王寺に進んだ。
二十五日、関東。北の上杉憲顕の圧迫に窮した高師冬が、足利基氏を連れて鎌倉を捨てた。
『高播磨前司鎌倉を没落し、同日夜半、毛利庄湯山に着す』(醍醐寺報恩院蔵古文書録)
“高師冬は鎌倉を没落し、二十五日夜半、相模国毛利荘湯山に着陣した”
若御前だけは渡さぬ。若御前こと御曹司基氏を、三戸七郎・彦部次郎・屋代源蔵人・一色少輔・加子修理亮・中賀野加子宮内少輔・今河左近蔵人ら七人が警護する。
翌二十六日辰の刻(朝七~九時)、石塔義房(頼房の父)の手が、湯山坊の一行を襲った。
『三戸七郎をば宮内少輔これを討つ。彦部を加子修理亮これを討つ。屋代をば義慶の手これを討つ。以上三人討たれ畢んぬ』
宮内少輔・加子修理亮らが石塔勢に寝返り、一人が重傷を負い、二人が討ち取られた。こうして基氏は直義派に奪還され、二十九日、上杉憲顕・三浦高通らに伴われて鎌倉に戻った。