【南朝に降る―親房の糸―】
一三五〇年十一月八日、石見国三隅城を包囲する高師泰軍を岩田胤時(直冬派)の軍勢が突いた。師泰軍は劣勢になろうとしていた。
九日、九州の小弐が降服したという報が京に届いた。だが、まもなく誤報と分かった。夜、高師泰が三隅城から追い落とされて出雲に逃れたという風聞が届いた。これも誤報だった。これらは、稚拙で明らかな虚報であるが。人為を窺わせるものであった。
十六日、足利尊氏が光厳上皇から直義追討の院宣を得た。
だが、翌十七日、再び都に妙な風説が流れた。
『将軍播州に於いて船遊びし、其の次いで逐電せらる』(園太暦)
“将軍は播磨で船遊びをされ、そのついでに逐電された”
『或は云ふ、書写山に参詣し彼寺より逐電せらる』
“あるいは云う、将軍は播磨・書写山に参詣し、寺から逐電した”
今、直義討伐の院宣を得た尊氏が何故逐電する。逐電を信じられる将軍尊氏の人柄も問題であるが、風説には明らかな指向性がある。「尊氏と高師直の決別の流布」である。
尊氏はまさに高師直と軍旅にある。十八日、尊氏は備前三石で河野通盛へ書状を送った。
『ちんせいほうきによて、ハんかうする所なり』(足利尊氏自筆御内書・荻野周次郎氏所蔵文書、上島有『足利尊氏文書の総合的研究写真編』七十九頁)
“九州で蜂起した直冬を討つため、軍を発した”
十九日、尊氏は備前国福岡に到着し、軍勢が集まるのを待った。二十日、直義が河内・和泉・紀伊守護の畠山国清(師泰に代わり対南朝を指導)に迎えられ河内国石川城に入った。
だが、二十二日これらを嘲笑うかのように今度は『世上殊なる事有るべからず』(世は安定に向かっている)という説が流れた。更に夜、今度は『世上今夜火事あるべし』(都で今夜大火事が起こる)という噂が流れた。何者かが情報を操作し、撹乱を試みている。
二十三日、驚天動地の報が都に届いた。「足利直義が南朝に降服した」・「畠山国清・吉良貞氏がこれに応じた」。二十五日、京の洞院公賢の張り巡らす情報網に大物が掛かった。
『源大納言入来』
“(南朝総帥の)大納言北畠親房が、直義の依る河内国石川城に入来していたようだ”
『之に謁す、条々談する事あり、国々動乱の事之を語る』
“大納言は直義に会い、密談をしたようである。諸国の動乱について語ったようだ”
敵対勢力の分裂に乗じ、一方を取り込む。公家の常套手段である。親房は直義を取り込んだ。