【観応の擾乱―天下三分の開始―】
一三五〇年十月二十七日、九州に向けて進発しようとする足利尊氏を凶報が襲った。
『錦小路左兵衛督入道、去夜逐電す』(園太暦)
“恵源(直義)入道が、昨夜二十六日、逐電した”
報せに動揺した高師直は、直義の探索と出陣の延期を求めたが、尊氏は容れなかった。
『今暁卯刻将軍進発す』
“本日二十八日朝の卯の刻(五~七時)、将軍は進発した”
その数、四五百騎。師直以下が従う。
『師直旗差某、東寺南門前に於いて落馬し手を損ふ、依って此所に於いて其の仁を差替ふ』
“師直の旗差し某が、東寺南門で落馬し手を負傷した。不吉なので、人を代えた”
それでも、尊氏は九州を優先した。小弐頼尚の離脱によって、北九州の勢力図が大きく動いたからである。鎮西管領の一色道猷・直氏親子は、戦力中核に裏切られて大宰府を失った格好となる。道猷は博多を捨て、肥前草野城に籠った。直冬の北九州掌握は時間の問題だった。
十一月直冬は今川貞直(肥前勢)・小弐頼尚(筑前・筑後勢)と合流し、大宰府に入った。
京を出奔した直義は大和に逃れていた。越智伊賀守を頼っている。三日、直義は挙兵した。
『師直・師泰誅伐事、早馳参御方、可致忠節』
“高師直・師泰を誅伐する。味方に馳せ参じ、忠節致すべし”
諸将に向けて発された軍勢催促状には、この文言が付された。すなわち、将軍尊氏と戦うのではない。「君側の奸」を討つ。足利尊氏・足利直義・南朝。今、天下は三分された。
直義は光厳上皇を確保しようとする筈だ。八日、兵庫に陣を置いた尊氏は義詮に、京で騒ぎが起きた場合には仙洞御所にお移りいただき、一所において警護せよと指示を出した。
その際は、禁中は無人不便、公家の面々も伺候すべし、と沙汰があった。
『愚身の如きに仰せ含む、尤も普通に非ざる歟』(園太暦)
“わしにまで言うとは。普通ではない”
関白二条良基は何をやっとる。そう漏らす“老廷臣”もいたが、世上混乱の時節である。当時、京・北小路里辺には軍勢が多く寄宿したという。その付近に、洞院公賢旧知の女官が独居した。狼藉されるのがおちだ。その身を案じた公賢は、女官を邸に引き取っている。
この頃、都では誤報虚報が飛び交い、さしもの公賢も情勢が読めなくなりつつあった。
『何れか是、何れか非、鬱陶に迷ふ者也』
“まったく何が正報で、何が誤報なのか。鬱陶に迷うほかない”