【十四年ぶりの出陣】
一三五〇年一月、高師冬が再び関東に下向した。翌二月二十七日、北朝が元号を改めた。新たな元号は「観応」である。この月、公家施行状の宛て人が、足利直義から義詮となった。
この頃、尊氏は一室に籠り、絵を描く事が多い。
『夢中有感通、 令我画尊容、 利済徧沙界、 善根無所窮、』
絵は「地蔵菩薩像」である。義堂周信という僧は記す。これは、尊氏が後醍醐天皇と戦い、九州に落ち延びた時からの習慣である。夢で敵に追われるところを地蔵に救われた。
“夢中、感通あり”。以来、尊氏は、お世辞にも上手いとは言えない地蔵画を量産していた。絵の地蔵は表情を持たない。その目は黒く、光を放たない。
三月、幕府では足利直冬の討伐が決まり、高師泰率いる遠征軍が九州に派遣されることになった。しかし、直冬追討を命じる光厳上皇の院宣はなかなか下されなかった。朝廷の守護者としてよく仕えた足利直義を重んじた、光厳上皇の最後の抵抗といえる。遠征軍が、実際に京を進発したのは六月二十一日であった。
計画から実行まで三ヵ月。貴重な時間が失われた。この間、山陰・石見国では、国人・三隅兼連(元南朝方)が直冬に通じて挙兵し、同国を制圧している。ために遠征軍は、九州に到る前に三隅氏を討伐する必要に見舞われ、石見に向かった。だが、桃井義郷(直義派)が三隅氏を支援したため、石見国三隅城を抜けず、遠征軍は石見を動けなくなった。
七月二十五日、土岐周済が美濃・尾張の凶徒を率いて、美濃で挙兵した。幕府の分裂が顕在化したのである。土岐勢は近江に進出し、佐々木導誉勢と衝突した。二十八日、義詮が四・五百騎を率いて出陣した。これを高師直が補佐する。八月二十日、義詮・師直は、土岐周済を捕え、京に凱旋した。二十七日、周済は処刑され、六波羅焼野に晒された。
その際、朝廷では義詮を賞すべきかが議された。朝敵でもないので奏聞の限りではないとの意見も出たが、光厳上皇は洞院公賢に勅問の上、義詮を参議・左近衛中将とした。
九月二十八日、少弐頼尚が、遂に直冬に付いた。十月十六日、少弐と豊後守護・大友氏が直冬方に転じたという報が京に届いた。京にいた大友氏代官は前日夜逐電している。
二十一日、建武式目に携わった小弐頼尚の叛逆を受け、尊氏は阿蘇惟時へ書状を送った。
『太宰筑後守頼尚の事、直冬の返逆に与同せしむるによって、すでに発向』(阿蘇家文書)
“大宰府の少弐頼尚が、直冬に与同したので、出陣する”
足利尊氏が直接軍勢を率いるのは、一三三六年の第二次京都争奪戦で後醍醐天皇・新田義貞と雌雄を決して以来である。実に、十四年ぶりの出陣であった。