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【脱線六・倭寇―元の海上統制の衰退―】

一三五〇年二月、九州が割れようとしていた。足利直冬は肥後にあって、戦略を開始した。

・筑後方面(北):肥前に今川直貞を派遣。国人と協力し、大宰府の小弐頼尚の挟撃を意図。

・肥後:河尻幸俊と肥後国西部を固める。南朝の懐良親王(征西将軍)・菊池とは協調する。

・島津対策(南):吉見頼房を派遣。日向の畠山義顕を味方に付け、島津宗久を牽制。

 即ち、直冬は北九州の制圧を目標としていた。これに対して、大宰府の小弐頼尚は筑前・筑後両国の諸勢を派遣し、当初のところ直冬の北上阻止に動いた。

 しかし、頼尚の本心は別にあった。実のところ、直冬の勢いを観察している。

小弐氏は本来、筑前・筑後・肥前の三国を保持する北九州の雄である。しかし、足利尊氏は鎮西管領を務める一色道猷・直氏親子のもと、小弐頼尚を配下に位置付けた。そればかりか、肥前を一色に与えている。この仕打ちに、頼尚は反感を持った、小弐は一色の九州経営に事あるごとに異を唱え、反発する勢力に変じていたのである。

 小弐頼尚は、かつて九州に落ちた足利尊氏を助けた。多々良浜の戦い・湊川の戦いに参加し、共に京に上り、建武式目の起草に名を連ねた、いわば室町幕府設立の元勲である。その頼尚が、直冬に興味を持ち、反幕府に傾きつつある。その背景は何か。


 その手掛かりが、この年二月、海外で起きた事件である。場所は高麗。「倭寇」である。

『倭寇固城・竹林・巨濟・合浦千戸崔禪・都領梁琯等戰破之、斬獲三百餘級』(高麗史)

“倭寇が固城・竹林・巨済・合浦に侵入した。崔禅・梁琯らが戦い、三百余人を斬獲した”

倭寇とは、対馬・壱岐の住民、松浦党など九州の諸勢力を構成員とする海賊である。

『・四月、百余艘の倭船が順天府を襲い、南原・求礼・霊光・長興などの漕船を略奪した。

・五月、六十六艘の倭船が再び順天府を襲い、一艘が捕えられ、十三人が斬られた。

・六月、二十艘の倭船が合浦営舎を焼き、固城・会原等を襲い、長興府・安壌郷を襲った。

・十一月、東萊郡に倭寇があった。』(田中健夫「倭寇」講談社学術文庫・二六~二七頁)

以上は『高麗史』が記す。倭寇は、この年を機に盛んとなった。実のところ、倭寇それ自体は元寇前からある。百年以上前から存在し、かの藤原定家も『明月記』に記している。

重要なのは、四月に倭寇が襲撃したのが「漕船」である点である。漕船とは、高麗の年貢米を運ぶ船を指す。倭寇の目的は兵糧であった。元が混乱し、その海上統制が緩んだ今、倭寇を止める者はいない。倭寇は、高麗に止まらず、元国東岸の山東にも出没した。


この時期、元衰退の影響から周辺地域の統制が緩み、九州でも兵乱が起きた。倭寇はその兵糧を確保した。それを黙認したのが、小弐氏や南朝をはじめとする、西国諸勢力であった。

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