【直冬叛く】
一三四九年九月十日、叔父の苦境を知り、備後国・鞆で師直討伐の兵を募る足利直冬を追討の兵が襲った。命を発したのは父尊氏である。直冬は四国に逃れ、ついで九州に落ちた。
しかし、ここで終わらず肥後国・河尻津に上陸し、十六日前後、周辺国人へ参陣を求めた。
『京都よしおおせらるるの旨あるにより、下向せしむるところなり』(志岐文書)
“京都の父上の命により、九州に下向してまいった”
「父の命」とはよくぞ言ったり。二十日、直冬は阿蘇大宮司・阿蘇惟時にも書状を送った。
『参るべきの由、使者到来の条、悦び思しめさるるところなり』(阿蘇家文書)
“惟時殿、参陣くださると使者を派遣されたこと、喜ばしい”
惟時は南朝の苦境のなか幕府に転じていたが、直冬の勧誘に転んだ。そして、直冬の上陸した肥後には懐良親王・菊池武光がいる。この頃、惟時は再び南朝に意を通じるようになった。
このままでは一色道猷に任せていた九州が割れる。二十八日書状は尊氏の動揺を伝える。
『兵衛佐出家の事、おほせられて候』(阿蘇家文書)
“将軍は、直冬殿に出家してほしいとおっしゃっている”
このままではまずい。京では、全てが急がれ始めた。十月二日、足利義詮上京の報が都を駆け巡った。この日、足利直義は三条坊門の邸を捨て、腹心細川顕氏の邸に移った。
このまま、何も起こらないでくれ。尊氏は、十一日、阿蘇惟時に御教書を発した。
『兵衛佐の事、出家すべきの由仰せ遣わすの処、肥後国河尻津に落ち下る』(阿蘇家文書)
“直冬のことであるが、出家せよと命じたところ、肥後国・川尻津に落ちていった”
『素懐を遂げ、無為に上洛せしめば、子細に及ばず、其の儀なくんば、法に任せて沙汰』
“出家し、おとなしく上洛させるなら罪を問わぬ、さもなくば法に任せて処断する”
しかし、阿蘇惟時は応じず、直冬の九州における勢力は日に日に拡大していった。
二十二日、義詮が鎌倉府から、河越氏・高坂氏ら東国諸将を引き連れ、上洛した。高師直ら在京大名がこれを近江国・瀬田で出迎える。派手であった方が良い。義詮の登場を印象付けなければならない。その行列を多数の京童・貴族達が見物する。彼等は政権の交代を悟った。二十六日、義詮は叔父が捨てた「政庁・三条坊門邸」に入った。ここに、義詮政権の開始が内外に示されたのである。十一月、義詮の名で御教書が発された。
十二月、鎮西で勢いを得た直冬が高師直・師泰兄弟討伐のために上洛するという風聞が流れた。六日、これに呼応したのか、越前に流されていた畠山直宗・上杉重能が、配所を脱し、逐電した。そして、八日直義が突如出家し、「沙弥慧源(恵源・えげん)」を名乗った。