【内談】
長く鎌倉にいた足利義詮が京に戻る。その前に。幕府が“今の形を保っているうちに“。決めておかねばならないことがあった。関東を如何にするかである。
一三四九年八月末から九月初頭、足利尊氏・直義兄弟は場を持った。今川了俊の述懐によると、『御内談』(難太平記)とある。当時、洞院公賢すら掴めなかった「密談」であった。
関東は、常陸合戦を終え、五年が過ぎる。鎌倉府は義詮を主に、執事・上杉憲顕(足利兄弟の母は上杉清子である・憲顕は従兄弟に当たった)がこれを補佐する。
おそらく、憲顕と仲の良い直義は、義詮の人となりを知らされていた。曰く。
『坊門殿は、如何に申させ給とも、御あらためさせ給がたし』(難太平記)
“義詮殿は、(兄上が)いかにおっしゃっても、身を改めないでしょう”
随分な云い様であるが、この時、直義は甥の指導者としての資質をひどく否定している。
『然らば、終に天下をたもたせがたかるべし』
“しからば、天下を保つのは難しい”
高師直ら有力者に実権を奪われる公算が高い、と述べている。後年、直義の懸念は、ある面で正しかったことが立証される。しかし、室町幕府将軍の地位を上昇させたのは、誰あろう二代将軍義詮である。直義は、兄の子達に向き合うと、厳しい叔父の顔を見せてしまう。
尊氏はそんな弟の言葉に黙って耳を傾けている。弟は権道で物を言っていない。
『たとひ少々御政道たがふ事ありても、関東大名等一同せば、日本国の守護たるべし』
“例え義詮殿が少々政治を傾けても、関東大名が団結すれば、日本国の守護となるでしょう”
弟の見解は分かった。関東の軍事力は、高師直や佐々木導誉ら一癖も二癖もある有力者への
牽制に使うべきである。義詮を京に戻すからといって、関東を空にするのは得策ではない。
『坂東八ヶ国をば、光王御料基氏に譲り申され』
“大御所(尊氏)は、関東八ヶ国を、足利基氏殿に譲られた”
基氏は尊氏の末子(嫡子義詮の弟)である。同時に直義の猶子(簡単な養子)であった。
『今日左兵衛督直義朝臣子息実将軍子息也学問始』(師守記)
“一三四四年六月十七日、直義卿の子(基氏)が学問始めを行った。実は将軍の子である”
一三四四年当時、直義に如意丸はいない。基氏は直義の後継者になる筈の子であった。
『今夜深更、将軍末息九歳小童、関東管領左馬頭義詮朝臣の替として、下向す』(園太暦)
“九月九日夜深く、将軍の末子(九歳の童である)が、義詮の替りに関東に下った”
隠密のためか。供の軍勢は『百騎に及ばず』。公賢がこの下向を掴んだのは後日であった。