【兼好法師入来】
一三四八年八月二十八日、足利直義は、養子直冬を紀州に派遣する傍らで、自らは宮中工作に動いていた。十月二十日、これに協力して諸事整えた洞院公賢が、太政大臣の宣旨を受けた。その工作とは皇位の交代である。二十七日、光明天皇が譲位し、崇光天皇が即位した。
皇太子は直仁親王である(花園法皇の子と思いきや光厳上皇の子だった皇子・【幻の継承者】)。その際、邦省親王(邦良親王の子)という親王が、皇太子の地位を狙って奏聞をしている。しかし、上杉重能の謀略により、頓挫した。重能は直義の腹心である。その指示があったのだろうi。これによって、後二条天皇(後醍醐天皇の兄)の血統は、皇位への道を閉ざされた。すなわち、「南朝の属する大覚寺統が京で天皇となる」可能性が皆無となった。
吉野すら失った南朝の後村上天皇・北畠親房にとって、看過できない事態であった。両統迭立より七十三年。持明院統の勝利が政治的に完全確定したかに見えたからである。
直義のしていることは、高師直への当て付けである。師直の吉野攻略がどうした。文治派は直冬が九月紀州討伐に成功し、十月大覚寺統の芽も宮中工作で封じた。これが「政治」だ。といったところだろうか。若干子供じみているが、これにより師直は追い詰められた。
十一月十一日、花園法皇が、持明院統の勝利確定を見届けて、崩御した。晩年は、直仁親王の立太子を喜び、時に能ある僧を見付けては寺社勢力の中で抜擢する毎日であった。
十二月二十六日、かつて仕えた邦良親王の子孫の末路と自らの栄光をどこか冷めた目で見つめる元春宮大夫・現太政大臣の洞院公賢のもとを、懐かしくも珍しい客人が訪れた。
『兼好法師入来』
兼好法師は、今でも時に歌会の打ち合わせに公賢を訪れる。会えば雑談をする仲であった。
『武蔵守師直狩衣以下事談之也』(園太暦)
“高師直の(年末の朝廷儀式の)衣装について相談をしにきた”
あの“吉野の皇居を焼いた師直が”朝廷儀式に神経をとがらせている。邦良親王に愛された兼好法師に泣きつくあたり、師直も政治家である。事態は差し迫っていた。
一体、将軍足利尊氏は弟と執事の神経戦をどう見ていたのだろうか。よく分からない。が、翌一三四九年三月、尊氏は重要な動きをした。この月十四日、将軍邸が何故か全焼した。この時、尊氏は師直の一条今出川邸に移った。つまり、直冬のいる弟の邸を選ばなかった。
―直冬の将器は本物である。しかし、当分の間、京にはいない方が良い―
四月、足利兄弟双方の判断により、急に長門探題(中国地方八ヶ国を統括)が設置された。十一日、直冬は西国に出発した。かくして、若き直冬は、父と叔父の配慮で、死を免れた。