【左兵衛左直冬】
足利尊氏・直義兄弟は、さほど色恋に熱を上げる人ではなかったらしい。
だから、尊氏の子は、竹若(側室の子・鎌倉幕府倒壊時に殺された)・義詮(二代将軍になる予定)・基氏(直義の猶子・鎌倉公方になる予定)・頼子(先立つ)の筈であった。
もう一人の男子が京に現れた時、尊氏は沈黙する他なかった。その子は、鎌倉・東勝寺(鎌倉幕府倒壊時、北条高時ら千余人が自害した寺。母親の縁だろうか)に預けられ、僧として育った。同寺の僧に連れられて上洛したその子は、叔父直義に父との面会を求めた。しかし、尊氏は容れなかった。結局、その子は「直冬」という名を得て、直義の養子となった。
その影には父尊氏の黙認がある。しかし、叔父のもとに引き取られた息子は意気消沈する他なかった。そんな若き甥を、おそらく直義はこう諭したのではないか。
『家によりて身を云べしと努々思ふべからず』(難太平記)
“家によって(血によって)、出世しようなどと、思うな”
『文道をたしなみて御代の御助となりて。其徳によりて可立身』(同)
“学問を修め、将軍の助けとなり。その徳によって、身を立てよ”
当時、室町幕府は北朝と協力して政治を行っている。例えば、諸国に税を課す権限(一刻平均の役)は朝廷にあった。幕府はそれを受けて守護に命令を実行させる。幕府は、この時代ですら「実行者」に過ぎない。次代を担う若者達は、無能であってはならなかった。
だいたい、古代から日本を統治する朝廷には様々な権限が残されている。この時点で、室町幕府にそれらを一挙に奪う事は出来なかった。鎌倉幕府が、ほんの十数年前にそれを試みて、滅んでいる。京の朝廷は権威・権限を握る。その傍らにある寺社勢力は経済を握る。幕府は軍事力を軸に朝廷や寺社と対峙し、徐々に統治者になっていく他なかった。それが、鎌倉幕府以来、百数十年の武家の歩みである。直義の日々の歩みでもあった。
直義は突如現れた甥を愛し、今川了俊ら次代を担う若者達の中核として、期待もした。
そして、南朝がいる。一三四八年二月頃、懐良親王(九州南朝の旗頭)が薩摩・谷山城から北上を始めた。肥後の菊池武光との合流を意図しているのは明白であった。
『紀伊国の凶徒退治の事、院宣に就いて、左兵衛左直冬を差し遣わす』(宇野文書)
四月十六日、直義は光厳上皇の院宣を奉じ、直冬に紀伊の南朝討伐を命じた。五月二十八日出陣した直冬は、八月各地の城郭で合戦し、九月四日阿瀬河城を攻略した。更に南の日高郡に進出し、二十八日紀伊の南朝を鎮めて帰途に就いた。南朝の根強い畿南の奥地で、三箇月の攻防に耐えて戦果を上げた。諸将は「突如現れた将軍の子」の将器に目を見張った。