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【第一回南北和談交渉―尊氏の誤算―】

足利直義には、去る一三四七年六月八日、如意丸という男の子が誕生している。この子は、僅か四歳で天に召される運命にある。だが、足利家の運命を分けた子供であった。

 何となれば、足利尊氏の幕府運営方針が、この子の誕生一つで破綻したからである。

弟直義は四十一歳。やがて、男子なく隠居する時、その権限は尊氏の息子足利義詮と基氏に受け継がれる。即ち、弟が一代懸けて創り上げた室町幕府は、尊氏の子達によって引き継がれ、弟直義は周公旦よろしく、「足利家にかつていた偉い弟」に納まる筈であった。

 だから、執事・高師直を、弟と一緒になって抑えたのである。執事・師直のもとには、建武政権打倒時に糾合した畿内近郊の新興武士団がいる。その軍事力は危険であった。

 繰り返すが、直義に男子さえ産まれなければ、上手くいった筈だった。室町幕府・第二代将軍は「畿内近郊の武士団を番犬に南朝を接収し、直義以来北朝の帝と仲良しで、幕府政治の実権も一手に握る」存在となる筈であった。しかも、足利尊氏は、その路線に九割方成功しつつあったのである。室町幕府の将軍はもっと強い筈だった。


 一三四七年はまさに足利尊氏にとって厄年だった。弟に男子が生まれるわ、娘は亡くなるわ、南朝の楠木正行が決起するわ。尊氏が撹乱した理由も分かる(【操る者たち】参照)。

 それは、南朝総帥・北畠親房の関知するところであった。後継ぎ、派閥、出世争い。貴族の得意分野である。親房は、兼ねてその方向に目を付け、幕府が割れるのを待っていた。

 親房は、直義の男子誕生を知るや、全国各地の南朝決起を本格化させた。

 せいぜい、二三千の楠木正行相手に、九月、直義派の細川顕氏が一敗。それはまだ納得がいくにしろ、十一月、山名時氏・細川顕氏の二人がかりで大敗北。しかも、この時、顕氏は「戦いもせずに退却した」(【住吉の戦い】)。こののち、尊氏は弟直義と対立する。その時、細川顕氏は両陣営を怪しく行き来し、ついには尊氏に寝返って生き伸びた人物である。

―住吉の戦いの、細川顕氏の退却は、足利尊氏の指示だったのではないか?―

住吉の戦いで、直義派は河内・和泉の守護職を失い、長く干されていた高師直が息を吹き返した。そして、翌一三四八年一月、四条畷の戦い。北畠親房は、配下に京で放火を繰り返させ、高師直・師泰を河内に引っ張り出した揚句、楠木正行を捨て駒のように突撃させた。高師直に手柄を立てさせようとしている。事実、高師直は名を挙げ、前段では、慌てた直義が南朝との和睦交渉を言い出し、幕府内での主導権を取り戻そうと躍起になっている。


 一月二十日前後、和談交渉は、幕府の内情を察し、笑い噛み殺す北畠親房に握りつぶされた。二十四日、親房の指示で空になった吉野は、幕府軍先鋒によってあっさり占領された。

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