【師直動けず】
楠木正行敗死を知った南朝は早かった。翌日の一三四八年一月六日夜には、南朝某宮将軍が和田一族(楠木の一族)を召し、北畠親房を招き、今後の対策を議している(和田文書)。
十日、京の洞院公賢は日記に記す。
『或いは云ふ、吉野主已に没落せしめ給ふ』(園太暦)
“吉野帝(後村上天皇)は既に吉野を捨てたと噂が流れている”
一方、高師直は、大和国平田荘に軍を進めている。このまま、一挙に吉野に南下するかに見えた。しかし、師直は、不審にもここで軍を止めた。
『師直未だ吉野に向はず』
“師直は未だ吉野に向かわない”
師直の動向をいぶかしむ公賢のもとを、二十日、日吉禰宜の行忠が訪れた。
『去十五日より大和国平田荘にあり、而して西大寺長老中媒し、後和談の事聊か沙汰あり』
“十五日から師直は平田荘にいて、西大寺長老静心上人を仲介に、和睦が工作されている”
驚く公賢のもとを、更に実尊僧正が訪れた。
『和談の事は夢窓上人各々云々の事有るか』
“両朝和談(北朝と南朝の仲直り)の事は、どうも夢窓疎石上人が噛んでいるようです”
つまり、夢窓疎石と親しい、副将軍足利直義がこの交渉に噛んでいた。
この時、和睦がなれば、南北朝の抗争はここで終わっていた。
だが、北畠親房は呑まなかった。師直の行動に付け入る隙を感じたからである。
一気に南下しない師直は、背後を気にしている。京から、師直をこれ以上勝たせたくない力が働いている。幕府創設以来、執事・高師直は足利兄弟に疎まれていた。
幕府創設期、幕府の裁定は、足利家執事・高師直の執行状がなければ動かなかった。
だが、幕府ができて十二年が経った。この間、足利兄弟は、時を懸けて高師直から実権を取り上げていた。土岐頼遠・塩冶高貞らが除かれ、いつのまにか、師直の執行状がなくても、幕府は回るようになっていた。鎌倉時代、源氏将軍は三代で絶え、北条一族が実権を握った。両将軍・足利兄弟は、高一族が“ただの執事のまま”でいるべきだと考えていた。
本章冒頭「三方制内談方の設置」が将軍尊氏の答えである。三つある裁判機関のうち、二つは直義派、一つは高師直である。即ち、幕府の三分の二は弟、三分の一は日頃頭を抑える執事である。設置時、弟には男子がいない。弟一代ぐらいは、好きにしてもらい、気が済んだら子供達(義詮達)に「三分の二」を返してもらうつもりだった。