【四条畷の戦い】
一三四七年十一月、足利直義の指揮する河内・和泉戦線が破れた。一度ならず二度までも。河内・和泉の守護が文治派(直義派)の細川顕氏から、武断派の高師泰に交替した。楠木正行討伐の任が、足利直義から高師直(足利家執事・師泰の兄)に代わったのである。
十二月七日、京の各所で放火が行われた(師守記)。南朝方の仕業だろうか。これ以上守勢に回ることを嫌った師泰は十四日、三千余騎を率いて京を発し、河内に向かった。十六日、再び京で火が上がった。持明院殿の近辺まで焼けたため、高師直は公卿らと院に伺候した(師守記)。十八日、また火の手が上がった。今度は、武家邸宅が多く焼けた(師守記)。
さながら悪霊である。直義・光厳上皇らは、事態を畏れ、各所で祈祷を行わせた。
この頃、北畠親房が興良親王を奉じて和泉に布陣し、四条隆資が暗峠(河内・大和の堺)に着陣した。二十八日、南朝方の総力を知った高師直が腰を上げた。
『先下向八幡云々。其軍勢一万餘騎云々』(貞和四年記・房玄法印記)
“師直軍は、まず八幡に下向した。(師泰と合わせて)軍勢一万騎余りである”
翌一三四八年一月二日、師直は八幡を発って河内路に入り、野崎に着陣した。
『武蔵守師直、東条を攻めんがため、佐々羅より攻め向かうの間、東条軍襲来す』(園太暦)
“高師直が南の東条城(千早赤坂のやや北西)を攻めるため、佐々羅(四条畷・大東)から、攻め向かうところ、東条城にいた楠木軍が北上してきた”
―小僧、何故城から出てくる―
五日、四条畷の戦いである。四条畷は大軍が展開するのに適した平原である。しかし、楠木の動員力は、せいぜい二三千に過ぎない。正行の行動は不可解であった。すぐそばには生駒山がある。なぜ、山岳の地形を利用しない。この時点で師直は戦術的優位に立った。
父正成も、最後は正面から挑んできた。倅正行も、死ぬ気か。あるいは、楠木一族“も”、飢饉で兵糧に窮しているのではないか。師直はいぶかった。
だが、天下はこれで決する。師直は火矢の用意を命じた。
『合戦すこぶる火出ずる程の事なり』
“両軍の交戦は激しく、火が放たれた”
『楠木帯刀正連并舎弟・和田新発等自殺す』
“楠木正行と弟正時・和田賢秀らが自害した”
楠木正行死す。二十代前半だった。楠木軍は討たれ、捕虜となる者も少々出た。
戦場には幕府軍が残った。師直軍からは、「天下万歳」と声が上がった。