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【住吉の戦い】

一三四七年九月、足利直義は山名時氏を楠木討伐に遣わすことを決めた。十月一日、時氏は楠木正行の本拠・河内東条城に向け、軍を発した。

直義は急がねばならなかった。七日、南朝の懐良親王が、九州で阿蘇惟時に挙兵を促している。楠木を止めねば乱が拡がる。折りも折り、十四日、兄尊氏の娘の一人が夭折した。前段の洞院公賢との遣り取りを踏まえれば、尊氏の落胆と意気消沈は察して余りある。事実、この日を境に幕府の沙汰は数日停止し、遠慮した北朝までも、七日間雑訴(裁判)を止めた。

畿内が混乱しているのに、兄が動かなくなった。


十五日、伊勢外宮・村松家行が楠木に呼応し、挙兵した。

だが、北朝の面々は、楠木の兵乱よりも尊氏の撹乱に反応した。十七日、花園法皇が監修し、光厳上皇が撰集の和歌集が『風雅集』と名付けられることが決まった。

この歌集は、亡き京極為兼の京極派の流れをくむ歌集として、文学史上価値が高い。

『風雅集』には政治的な意図が二つあった。

一つは、後醍醐天皇の扱いである。歌集の中で、わざわざ「後後醍醐院の和歌」が持明院統の歴代天皇に混じって掲載されている。これは、北朝こそが後醍醐天皇の継承者であり、「南朝は吸収する」という政治宣言であった。河内・和泉の楠木こそ、南朝最後の隠し玉である。足利直義指揮のもと、これを討てば、南朝に一国を超える軍事力はなくなる。

 もう一つは、直義の扱いである。何と「足利直義の和歌」が持明院統の歴代天皇に並んで掲載されている。兄尊氏を差し置いて、である。尊氏がよく許したものだと思う。何となれば、北朝が直義を政治指導者と宣言したようなものだからである。鎌倉時代、将軍は飾りで政治は執権(副将軍)が行った。室町幕府も、副将軍直義が政治を握るということか。

 また、この月、広義門院が西園寺の未亡人を訪ねている(竹向きが記)。伊吹山と中先代の乱。北朝の面々は、足利尊氏に複雑な感情を残す。直仁親王への継承決定に、洞院公賢の復権。和歌集。足利兄弟の意図を超え、周到に北朝に好都合な天下の準備がされていた。


十一月、ようやく持ち直した尊氏は、八坂法観寺に娘了清の追善料所を寄付したあと、島津貞氏に書状を送り、伊集院・鮫島への対応を命じた。弟の指揮する戦線を避けている。

だが、二十六日、住吉の戦いで、直義の派遣した細川・山名が楠木に敗れた。

『顕氏幾ばくの合戦に及ばずして引退し、前伊豆守時氏心力を尽くして相戦ひ、終に舎弟両三人同所に打死し、時氏父子疵を被り引退す』(園太暦)

“細川顕氏は合戦に及ばず退却し、山名時氏が奮戦したが、弟達を討たれ、父子も負傷した”

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