【操る者たち】
一三四七年九月十九日、元左大臣・洞院公賢のもとに、細川顕氏の敗報が届いた。
『今日聞く、河州教興寺合戦、顕氏理を得るの処、凶徒夜に入って俄に襲来』(園太暦)
“今日報せが届いた。河内・藤井寺の戦いで、細川顕氏は優勢に軍を進めていたが、凶徒楠木正行が夜に入って、にわかに攻撃を仕掛けてきた”
『官軍敗績す、多く命を殞し、或は又死生不分明の輩多し云々』
“官軍は敗れ、多くの者が命を落とし、あるいは生死不明の者も多く出たという”
楠木の倅がしでかしてくれた。まったく、武家が徳政をしている時だというのに。まさに魔
障だな。公賢は、数年来の癖になりつつある、ぼやきをこぼした。
足利兄弟を朝廷の犬として飼い慣らす。それが洞院公賢のここ数年の仕事だった。特に弟
の方が使えた。「天下の執権」直義は、今や朝廷に忠実な臣である。輔弼の臣といってよい。
公賢は辛抱強かった。ある時は、新造の邸宅を建てた直義から洛中に例のない南西門を構え
て良いかと聞かれると、『所要の時之を用うる条、何事か有らん哉』(必要な時に開け閉め
して使うくらいかまわんでしょう)と鷹揚にこれを薦めた。また、ある時は、尊氏から娘を
「姫君」と呼びたいのだがどうだろうかと諮問を受けると、武家の娘に「姫」はないだろう
と内心笑いながらも『賢慮に在るべき』(将軍のお好きにどうぞ)と認めてやった。
こういう役目は、花園法皇・後醍醐院の二代、帝の近くに仕えた己にしかできない。公賢
は密かに自負する。そうなってくると可愛いもので、足利兄弟は二階堂成藤を使者に何でも
かんでも聞いてきた。公賢は答えてやる。次第に、自らは時折使者の前に出なくし、家司に
答えさせることを増やした。武家指南役・洞院公賢の誕生である。
公賢は操られる立場ではなく、「操る立場」にあるつもりである。先年、天龍寺ができた
時、足利兄弟は夢窓疎石にあやされ、土まで担いだ。公賢は、土を担ぐどころか、寺の落慶法要にも出なかった。光厳院からは出ろと命じられたが、「(困窮で)家僕の筋力が尽きて、来れない」とついに邸を動かなかった。公賢にはそれが許される。院の養父花園法皇の生母季子が洞院一族の出だからである。また、吉野の南朝にしたところで、後醍醐院の寵姫だった阿野兼子は公賢の養女である。吉野帝(後村上天皇)は孫のようなものだった。
翌二十日、公賢のもとを光明院良海上人が訪れた。息子実夏の近衛大将の祝いであった。
『東方蜂起し、小山・於田一円の上、宇都宮吉野より本国に下向するの由飛脚到来す云々』
“なんでも関東で吉野方が蜂起し、小山・小田が同盟、宇都宮も吉野から合流したそうです”
小山・小田・宇都宮、近衛の“藤氏一揆”の面々である。公賢は「奇しむべし」とこぼした。