【脱線四・天龍寺落慶法要】
天龍寺は、亡き後醍醐天皇の霊を慰めるために創建された寺である。一三三九年八月十六日、後醍醐天皇が亡くなった時、人々は大きな衝撃を受けた。その筆頭が、足利尊氏だった。
『柳営・武衛両将軍の哀傷・恐怖、甚だ深きなり』(天龍寺造営記録・「後醍醐天皇のすべて」九十五頁)
“足利尊氏・直義両将軍の哀しみと恐怖は、とりわけ深かった”
そのため、尊氏は、嫌がる臨川寺の夢想疎石を、院宣を持ち出して開山とし、造営を始めた。
十月五日、光厳上皇が下した院宣に曰く。
『亀山殿事、後醍醐院御菩提に資せられんが為、仙居を以って仏閣に改む、早く開山として管領を致され』(板倉晴武「地獄を二度も見た天皇 光厳院」百三十三頁)
“かつて亀山院が御所としていた建物を、後醍醐院の菩提を弔うため、仏閣に改める。(そこで無窓国師には)一刻も早く寺の創設者として、その管理を願いたい”
『かつは報恩謝徳のため、かつは怨霊納受のため』(天龍寺造営記録・「後醍醐天皇のすべて」九十五頁)
“何よりも、後醍醐院の恩に報いて徳に感謝し、その霊を慰めるためである”
一三四一年七月二十二日、造営が進む寺は、天龍寺と名付けられた。
天龍寺の造営は、六年もの時間を要した。それは、造営に莫大な費用が掛かった事もあるが、比叡山からの反発が強かったからである。
比叡山指導層の間では、現代に至るまで「後醍醐天皇暗君説」が語り継がれている。これは、元弘の乱以来、叡山が後醍醐に振り回され続けた事を原因とする。後醍醐天皇のために、一体何人の僧兵が犠牲となった事か。しかも宮方は敗れ、比叡山は報われなかった。
だから比叡山は、後醍醐天皇の菩提を弔う寺の名を「暦応寺」(元号を冠した名)から「天龍寺」に改めさせただけでは飽き足らず、天龍寺が勅願寺(朝廷のお墨付きの寺)になりそうだと聞くや、度々神輿を担いで入洛し、その阻止に動いた。
『しかるに猶疑殆を胎すの上は、供用当日仙駕を廻らすべからず』
(光明院宸記・原漢文、板倉晴武「地獄を二度も見た天皇 光厳院」百三十四~百三十五頁)
“(命日の八月十六日を延期したのに)まだ(勅願寺指定を)疑うなら、当日は出席しない”
そのため、一三四五年八月二十九日に行なわれた落慶法要で光厳上皇の出席が見送られ、行幸は翌日にもつれこんだ。ために、寺の供養には、尊氏・直義兄弟だけが出席したi。
尊氏・直義兄弟は、一三四一年七月の天龍寺地曳の際、竹篭に納められた芝土を自らかついだ(造営記録)。これは聖武天皇が、奈良の大仏を創った時の故事を基にしている。
この天龍寺創建を機に、尊氏は夢窓疎石を五山禅林の頂点に据えた。