―吉野炎上―【親房の帰還】
こうして、全体的に見て「北朝優勢・南朝劣勢」の情勢が確定しつつあった。後醍醐天皇・新田義貞・北畠顕家・三木一草。南朝を支えた者は既にいない。北畠親房の東国糾合計画も破綻した。南朝は一見、その命数を使い果たしつつあるかに見える。
「この時期に何故、足利尊氏は南朝を一挙に殲滅しなかったのか?」とは多くの人が指摘するところである。ある人曰く、「後醍醐天皇の死に落胆し、南朝への関心を失ったのだ」。あるいは曰く、「皇室を尊ぶ尊氏は、あくまで両統合一にこだわったのだ」。
しかし、これらは基本を忘れている。“軍事は政治の延長に過ぎない”のである。吉野を攻めたところで、諸国の南朝方は霞のように消えるだろうか。そうではあるまい。南朝方の多くは、忠誠心から南朝に従っているのではない。幕府の有様に不満があるから南朝に従っているのだ。仮に、南朝を殲滅したところで、彼らは別の旗を担ぎ出すだけの話である。
結局のところ南北朝の分裂は、政治問題であった。だから、政治的に解決できる時機が訪れなければ終わらない。当面は、幕府に不満を持つ勢力を南朝に統制させておいた方が、後々接収しやすい。政治家尊氏は、事態をそう理解していた。
しかし、これらは全て「幕府と北朝が勝つ」というのが前提である。吉野にいる南朝方から見れば笑止であろう。現に、彼らは畿南に本拠を置き、その勢力はじわりと拡大しつつある。その吉野に、関東から一人の老人が帰還した。北畠親房である。
一三四四年春、親房は准大臣に任じられた。幼少期を奥州で共に過ごした後村上天皇がそれを望んだのだろう。以後、親房は名実ともに南朝の総帥となった。
三月、室町幕府は、所務沙汰の機関として三方制内談方を設置した。
要するに、裁判機関である。次章のため、ここで幕府の実務を誰が握っているかを示すため、奉行人らを列挙しておく。
〇一方:高師直(頭人)・佐々木導誉・長井高広・長井丹後入道・二階堂道本・後藤行重ら
〇一方:上杉朝定(頭人)・長井広秀・二階堂三河入道・二階堂成藤・二階堂行直ら
〇一方:上杉重能(頭人)・二階堂行珍・佐々木善観・宇都宮蓮智・門注所顕行ら
(佐藤進一「室町幕府開創期の官制体系」・『中世の法と国家』より)
長井・二階堂・宇都宮・後藤。お気付きだろうか。鎌倉幕府以来の吏僚系の武士が、大半を占める。なかでも、長井広秀などは、あの長井宗秀が育て上げた孫なわけで(【金沢貞顕の転勤生活】参照)、宗秀も草葉の陰で喜んでいる事だろう。こうした官僚達は、足利直義を支持していた。当時、幕府の実務は、文字通り直義によって“掌握”されていたのである。