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【東国戦線の決着】

この頃だろうか、室町幕府将軍足利尊氏は、弟直義や高師直らがいる席でこう言った。

『當代は人の歎きなくして天下おさまらん事本意たる』(梅松論)

“我が代では、人の嘆きをなくし、天下を治める事を第一とする”

『今度は怨敵をもよくなだめて本領を安堵せしめ。功を致さん輩にをゐては殊更莫大の賞を行なはるべき也』(梅松論)

“宮方であっても、従うなら本領を安堵し、功を挙げれば莫大の恩賞を与えるべきである”


尊氏の狙いは東国そのものだった。一三四三年、尊氏は水面下で結城親朝と交渉を続けていた。関東と奥羽の境界に位置する白河結城。これさえ無力化すれば東国は鎮まる。

 関城の陥落は間近である。この年二月、悪化する常陸情勢に、結城は孤立しつつあった。

『一族並びに一揆の輩を催促し、早速御方に参り軍忠いたさば、建武弐年已前の知行地、各相違るべからざる』(吉川弘文館・伊藤喜良「東国の南北朝動乱」一五八頁、康永二年二月廿五日・仙台結城文書)

“一族・一揆と共に幕府に従うならば、建武二年以前に獲得した所領は安堵する”

尊氏の言はあまりにも甘かった。六月、幕府軍奥州総大将石塔義房は親朝へ書状を送った。

『先日子細を申さるにより、御方に参り、軍忠致すべきの由、仰せ下さる』

(吉川弘文館・伊藤喜良「東国の南北朝動乱」一四四頁、康永二年六月十日・結城古文書写)

“先日、貴殿の申し出を受け、将軍は貴殿に幕府軍に参加するようおっしゃている”

『この上はいそぎ馳参じて戦功をぬきんじらるべきなり』

“この上は、急ぎ御味方に馳せ参じ、励まれよ”


 七月三日、常陸関城の北畠親房は、長年の盟友が、自らの元を離れつつあるのを直観したのか、結城親朝宛ての書状で、いつになく幕府の内情をこき下ろしている。

『京都凶徒の作法以ての外と聞こえ候、直義・師直の不和、すでに相克に及ぶ』(ミネルヴァ書房・岡野友彦「北畠親房」二〇〇頁、興国四年七月三日付・相楽結城文書)

“京では、足利直義と高師直の不和がひどく、対立は相克の段階に至ろうとしている”

だが、八月十九日、親朝はついに幕府方に転じた。南奥羽・北関東の諸勢力が呼応した。

一揆勢:白河結城・村田・下妻・長沼・伊賀・石川・伊東・田村・那須・班目・船田・和知・

白坂・競石・豊田・由利・佐野・牟呂・中村・五大院・南条・荒蒔・標葉

(吉川弘文館・伊藤喜良「東国の南北朝動乱」一五三~一五六頁)

これらが一挙に尊氏の手に渡った。この時、東国の決着はついた。親房は敗れたのである。

【関城陥落】

一三四三年七月、北畠親房が、『神皇正統記』の校正を終えた。

『図らず展転書写の輩有り』(神皇正統記 奥書)

“図らずも、関城内の士が(この書を読んで感動し)、書き写している”

しかし、関城には最後の時が近付いていた。十一月十一日、ついに関城・大宝城は陥落し、関宗祐・下妻政泰らがこれに殉じた。親房は、落城寸前の関城を身一つで抜け、命辛々吉野に逃れた。皮肉にも、神皇正統記を書き上げた数ヵ月後、親房は完膚なきまでに敗れた。

 

この頃、伊達氏(南朝方)の本拠伊佐城が陥落している。奥州でも、北畠顕信も北奥の滴石城に逃れた。奥州大将石塔義房は得意の絶頂だった。だが、調子に乗った義房は、現地と中央の双方から反感を買い、一三四五年、京に呼び戻された。その後、奥羽には畠山国氏(武断派)と吉良貞家(文治派)が奥州管領として赴任し、統治した。

 

命辛々吉野へと逃亡する途で、親房は、見切りをつけた。

『私をさきとして公をわするる心あるならば、世に久きことわりもはべらじ』(神皇正統記)

“国家を動かす者が私欲に走り、公を忘れれば、滅ぶほかない”

親房は、私を先として公を蔑ろにする者が、世に久しく蔓延ることを許さない。

『天下の万民は皆神物なり。君は尊くましませど、一人をたのしましめ万民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬ』

“天下万物は皆神のものである。例え帝であっても、万民を苦しめれば天も神も許さぬ”

例え帝であっても、私の“楽しみ”を貪るものを認めない。

『白河・鳥羽の御代の比より政道のふるきすがたやうやうおとろへ』

“だから、白河院・鳥羽院の時より、朝廷は衰えたのだ”

関城・大宝城の陥落までに親房が気付いたことである。親房は、荘園制度で私を肥やし、朝廷を失墜させたかつての院や公卿を非難する。だからこそ往年の鎌倉幕府の善政を認めた。今の戦乱も、心ある武士らを糾合し、足利兄弟を滅ぼしさえすれば良いと考えていた。

だが、常陸の五年間で、親房は己の誤りに気付いた。結局、今勝った足利の幕府ですら、副将軍直義と高師直による対立が始まっている。武士達ですら、“何かに操られている”。だとすれば、親房が矛先を向けるべきは、もっと別のものである。すなわち、当時の日本のありよう“そのもの”だった。顕家を死なせたものの正体が判ったと親房は思った。まずは、北朝を壊滅させる。その後、私利に走る武士たちは否応もなく改心させれば良い。

この時、親房の標的は、都におわす北朝の帝ら(皇室)に絞られた。

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