【幻の継承者】
一三四三年四月十三日、光厳上皇は皇太子興仁親王(のちの崇光天皇)に対して、所領と皇位継承についての遺言状を作成したi。この中で、光厳は奇妙な事を記している。
『臣においては直仁親王輔翼の臣を以って、水魚の交わりをなし、各別給仕の近臣を要するなかれ』(宮内庁書陵部所蔵、原漢文・板倉晴武「地獄を二度も見た天皇 光厳院」一三七~一三九頁)
“臣下については、直仁親王の臣下を引きたてよ。自らの側近団を形成してはならない”
『右に載すところの国衙及び院領等、一瞬の後、必ず直仁親王に返すべし』(同)
“相続する所領についても、興仁一代だけが治め、死後は必ず直仁親王に返すように”
なぜ自分の子興仁を後継者としない。直仁親王は、叔父花園法皇の子ではないか。
これらの謎について、光厳上皇自身は、同じ日の別の置文でこう答える。
『くだんの親王を人皆法皇々子たりという。しからず、元これ朕の胤子なり』
(熊谷直之氏所蔵文書、原漢文・板倉晴武「地獄を二度も見た天皇 光厳院」一三九~一四一頁)
“くだんの直仁親王を、人は花園法皇の子だという。そうではない、我が子である”
『去る建武二年五月未だ宣光門院の胎内に決せざるの時、春日大明神の告すでに降る有りて、ひとえに彼の霊倦により出生するところ也』(同)
“去る建武二年五月、宣光門院(当時は花園に仕える女官)に子が産まれない時、春日大明神のお告げがあって、その霊験により出生した子である”
『子細は朕ならびに母儀女院の外、他人の識らざるところなり』(同)
“その子細は、私と母親である宣光門院だけが知っていた”
『興仁親王を以って太子の位に備えんと欲するの時、朕さらに思惟するところ有り』(同)
“先年、興仁親王を皇太子にしようとした時、実はまだ色々迷うところがあった”
『しかして藤原朝臣の言に依り遂にその事を成す』(同)
“しかしながら、勧修寺経顕の進言により、親王を皇太子にする事に決めた”
『臣においては前大納言藤原朝臣経顕を以って、重臣とす』(同)
“(この手柄があるのだから、)臣下においては勧修寺経顕をもって、親王の重臣とする”
宣光門院は、花園法皇の寵愛が深かった女官である。しかし、后ではないので、仮に置文の内容が本当だとしても、責められるべき事ではない。何より彼女は、かの伊吹山の折に、女官の中でただ一人花園らに最後まで付き従った実績を持つ(竹向きが記)。
そのため、遺言は周囲から好意的に受け止められた。花園も、直仁が皇太子になって喜んでいたという。しかし、この遺言は、後の“ある事件”のために実現されなかった。