【関城書】
一三四二年六月五日、脇屋義助が伊予で病死した。兄の新田義貞の死後も、越前・美濃と転戦を続けた不屈の将は、何の因果か、畳の上で生涯を終えた。
七月、畳の上で不屈の貴族が、常陸国関城で書状を認めていた。関城の北畠親房と奥州の白河結城親朝の距離は百㎞に及ばない。だが、その間には、佐竹・大掾・小山・下野結城・宇都宮。無数の障害があった。それでも。もはや、親朝が来援する以外に勝つ手立てはない。
『此關城者宗祐一身日夜馳走。至今可謂堅確也』(関城書)
“この関城は、城主宗祐が一人日夜励み、今に到るまで変わらない”
『凶徒專依圍當城船路陸地共斷絶』
“凶徒等は専ら城を囲み、水陸共に遮断されている”
『於白晝者更無往來之人。臨暗夜適雖有一兩之出入。殆希有之儀也』
“日中は人の往来がなく、夜間に一人二人出入りがあるが、これとて稀である”
『依之面々失膽畧。或放却乘馬。或交易甲冑』
“かくして城の面々は色を失い、あるいは馬を手放し、あるいは甲冑を売っている”
『如此之類縱雖欲全忠節。果而無炊骨易子之窘乎』
“このありさまでは忠節を全うしようにも。「炊骨易子」(三国志の程昱が呂布相手にやったような、死者を食べて子供を交換して食べる、地獄のような籠城戦)どころではない”
『下妻城者本自人情不一揆。正員者尚幼稚。扶翼者互爭權。随而浮説不休』
“下妻城はもとより人心整わず、考え浅く、幹部らが権を争い、悪い噂が止まない”
『竹園卿座。大將顯持朝臣經廻之間。聊加斟酌許歟』
“興良親王(護良親王の子・親房が東国南朝方の柱にしようと招いた)がおわし。春日顕国入城しているため、何とかおさまるばかりである”
その他、兵が少なく兵糧のない中郡城。一族から内通が出る中、真壁法超一人が気勢を上げる真壁城。音信不通の西明寺城。伊達行朝が籠ってくれている伊佐城(伊達氏発祥の城のため)。親房らがいる関城・大宝城。当時、関東における南朝の拠点は六城に減っていた。
『可在東奥之勢發向之期』
“南奥の軍勢を常陸に向けてくれ”
しかし、親朝は動けなかった。実はこの時期、結城には京から糸が延びていたのであるが(白河證古文書上)、親房には知る由もない。関城は所詮小城である。城主宗祐はわずかな兵のために苦労して兵糧をかき集め、親房に面会すると、しきりにもう持たないと漏らした。