【関城・大宝城】
一三四一年十一月、常陸国の主戦場は小田城から関城・大宝城に移ろうとしていた。北畠親房の籠る関城は関宗祐が城主である。隣の大宝城の下妻氏・春日顕国と連携し、抵抗が続いた。両城は、大宝沼と呼ばれる沼地に三方を囲まれた要害に位置する。両城への攻撃は北側からのみ可能であった。年末、高師冬・小田治久が両堅城を包囲した。
それにしても。親房が気になるのは、吉野の動向である。
『治久違辺之比も、小田に経廻候き、御移住当城之時も、罷留小田之間、不審候』(結城古文書写、某書状『白河市史』・伊藤「親房書簡から奥羽・東国の動乱をみる」五十頁)
“治久が寝返った時、(吉野の僧浄光が)小田にやってきていて、わしが関城に移った後も小田城に留まったままであった。不審である”
浄光は、後醍醐天皇の時代から吉野で活躍した使僧である。この浄光は、おそらく、吉野の和平派の意を受けて行動していた。あくまでも抗戦を主張する親房に未来を見なくなった小田氏は、吉野の和平派に接近し、遂には幕府方に転じた。
このまま和平派を放置すれば、東国の南朝は総崩れとなる。
一三四二年、紀伊の小山一族が大和宇陀の戦闘で、楠木・和田に従軍した。
三月十三日、小笠原貞宗が大宝城を攻撃した。四月、結城親朝が幕府方と交戦した。
五月一日、懐良親王が薩摩に到着した。瀬戸内海の海賊衆の助力を得て、ようやくの九州入りである。親王は谷山城に入った。城主谷山隆信は薩摩守護島津貞久と対立していた。
六日、前日に再開された高師冬の攻撃に耐える北畠親房は、再び浄光の動きを捕捉した。
『一僧浄光下向事、先日且被候了、太難得御意候』(相楽結城文書、五月六日付、結城修理権大夫宛、北畠親房御教書 伊藤「親房書簡から奥羽・東国の動乱をみる」四十六頁)
“僧浄光が、また下向してきて、吉野からの意向を伝えてきたというが、妙な話だ”
『凡東国事、可被閣直 勅裁之由、先皇御時被仰置候了』
“東国に関して、帝に代わって我々が裁定を下す事は、先帝が定められた事である”
『況於奥州者』
“まして奥州は言うまでもない”
『吉野殿上さま御幼稚、不被知食政事、両上卿沙汰錯乱事等候歟、又奉行人等モ未練事等候』
(結城古文書写、某書状『白河市史』・五十頁)
“吉野の帝は幼く、政治を知らぬ。側近達も錯乱し、奉行人らも実務に練達しておらぬ”
やはり、吉野がおかしい。