【直義と礎石4】
仏でも人が積み重ねた業を容易に転じる事は出来ない。
人が積んだ業を担えるのは人だけである。少なくとも、政治の意味はこのあたりにある筈である。西洋流に言えば、「主のモノは主に、カエサルのモノはカエサルに」である。心を担うのが宗教であり、裁判・経済・軍事を担うのが政治である。
足利直義と夢窓疎石の問答は多岐に渡る。
一つ伺えるのは、直義の質問が、徐々に高度になっていくことである。直義は疎石の意図を掴んだ上で、切り返しの問いをしている。
おそらく、その内容に驚いたのは、数年にわたる師と副将軍の問答を聞いていた疎石の弟子達だろう。副将軍は日に日に鋭い問いを発す。そんじょそこらの僧よりも、経典を読んでいるのではないか。夢中問答集が進むに従い、副将軍からは、経典でこんな風なことが書いてあったが今の話と矛盾しないかといった発言が散見されるようになる。
疎石も直義の理詰めの問いに動揺する様子が見えない。まるで、ともすれば直義をほぐすかのように、子供に教えるようなとぼけた例えを用いて答えた。
ある時は富士山の近くまで弟子達と物見遊山に行った際の船を漕ぐ老人の発言を、またある時は自分のもとに相談に来た闘争が好きな僧との遣り取りを交えながら。しかも、畏れるべきことに、それがちゃんと答えになっていた。伊達に、師の仏国国師を平手打ちして説法の法衣をもらったり、師に長楽寺の住職に推薦されたのが嫌で、富士を通って逃げたりはしていない(前述の「物見遊山」はこの時のことだろう)。
疎石あるところ、慕って集まる禅僧・客人が後を絶たなかった。ために、疎石は隠棲を好む。ある時は北条高時の母の招請から逃れて土佐まで逃げたことがある。寺院の住職に祭り上げらえながら、一夜にして忽然と姿を消したこともある。また、ある時は上総の退耕庵で農民の耕作をずっと指導しながら修業をしていたこともある。生国の甲斐に寺を置いたときには、海商から莫大な寄付を受けても普段通りにしていたともいう。
そんな疎石が一所に留まり続けたのは、直義との出逢いが大きかったように思われる。この間、疎石のもとに集まる弟子の数は千を超えた。