【直義と礎石1】
一三三八~一三四二年にかけ、室町幕府を創る足利直義は、夢窓疎石のもとをよく訪れた。
国師(疎石)は、当時にあって、誰にも支配されない人物であった。のちになるが、疎石は生前親交のあった後醍醐天皇(十三歳年下)についてこう評している。
『祗因叡運不得於時』(覚皇宝殿慶賛陞座)
“時機を得なかっただけである”
その政治の目指すところは間違いではなかったと評している。後醍醐天皇が武士以外の民の事を考え、商人や山の民・海の民を保護に努めていたことを、よく見ていたのだろう。
疎石は一二七五年の生まれであるから、すでに齢六十をこえる。対する足利直義は一三〇六年の生まれであるから、三十代前半から半ばである。両者の年齢差は三十一歳。
片や疎石は歴代天皇から七つの国師号を送られた七朝帝師、仏教界の頂点にある。直義は、兄尊氏と共に疎石に帰依し、その弟子となっていた。
ではあるが、片や足利直義は将軍足利尊氏の弟、天下の副将軍である。室町幕府の政務はこの男が動かしていた。わけても、後醍醐天皇との対決を兄に促し、今の時代を築いたのは己であるという自覚があった。兄尊氏は素朴に疎石を慕う。しかし、弟の方は、そういう風にはできていないため、この日、国師に挑みに来ていた。
『仏教の中に、人の福を求むるを制することは、何故ぞや』(夢中問答集)
“仏教は、何故人が福を求めるのを止める”
『報命尽くる時、その福身に随ふことなし』
“墓場まで、福は持って行けんでしょう”
だが、副将軍は苦戦を強いられていた。
『福を祈らんために仏神を帰敬し、経咒を読誦するは結縁とも成りぬべけれ』
“幸福を祈って、神仏を敬い、経を唱えるなら、信仰につながるから良いではないか”
『名利のためなる欲情にて仏神を帰敬し、経咒を読誦せば、いかでか冥慮にかなはむや』
“己一人、名誉や利益のために祈ったところで、そんなこと仏は望まれません”
『衆生を誘引する方便のためならば、世間の種々の事業をなすとも、皆善根となるべし』
“皆を救うためでなければ、意味がありません”
『自らを利し、他を利することきわまりなかるべし。とても欲心を発すとならば、何ぞかやうの大欲をば起こさざるや』
“欲をかくのでしたら、世のすべてを利してやるという大欲を何故かかないのです”