【小田城陥落】
一三四一年六月、東国南朝の分裂を察知した高師冬が、瓜連城を発ち小田城に迫った。城の北辺で激戦となり、十六日、師冬軍によって小田城は包囲された。
『師冬以下凶徒、去る十六日より、寄せ来る。陣を当城の山上に取り候了』
(吉川弘文館・伊藤喜良「東国の南北朝動乱」一三七頁、相楽結城文書)
“師冬ら賊軍が、十六日から小田城に攻め寄せてきている。陣を宝篋山に置いた”
この戦いで、師冬は小田城背後にある宝篋山の占拠に成功した。高所に位置する宝篋山からは小田城内部の様子が手に取るように分かる。敵軍の監視の出現に、城は動揺した。
城内の士気は低下し、最早、北畠親房ら単独で幕府軍に抗することは至難となった。
『後措の事、この時分いそぎ沙汰を立てらるべく候』
“結城殿、(何とかして、)急いで小田城の後詰めに来てくれ”
しかし、奥州(福島)の結城親朝に長駆常陸小田城に来援する手立てはなかった。近衛の企てで分裂した関東南朝の様子に、ますます足元を離れられなくなったのである。
親朝はこれまで北畠父子を支えることが一族繁栄の道と考えていた。だが、常陸合戦から現実を学び、この程、南奥州・北関東の近隣諸士と行動を共にするようになりつつあった。
『一族幷一揆輩』(白河証古文書、康永二年二月二十五日付、結城大蔵小輔宛、足利尊氏御判御教書案・伊藤「親房書簡から奥羽・東国の動乱をみる」五十八頁)
こうした連携は「一揆」と呼ばれ、他ならぬ親朝が南奥州一揆の中心となっている。
九月三日、奥州・多賀国府(宮城)。関東南朝の分裂と結城の躊躇に乗じた石塔義房が、南朝への反撃を決意した。南部政長が南下を終える前に、石巻の北畠顕信を討つ。三迫合戦が始まった。三迫では連日両軍の攻防が続いた。
十月二十三日頃、京の近衛経忠の工作で、高師冬に包囲される小田城が遂に分裂した。
『なかんずく当城内、已に異心の輩出現』
(ミネルヴァ書房・岡野友彦「北畠親房」一七一頁、興国二年十月二十三日付「北畠親房書状」(結城家蔵文書))
“小田城内で異心の輩が出現した”
しかし、親房にこれを止める手立てはなかった。十一月十日、小田城は陥落した。
『小田忽ち和順の道有りと称し、凶徒等を引き入るる』(ミネルヴァ書房・岡野友彦「北畠親房」一七一~一七二頁、興国二年十一月十二日付「北畠親房御教書」(相楽結城文書))
“(あろうことか)城主小田治久が「和議の目途が立った」と、幕府軍を城内に引き入れた。”
近衛め。親房は西の関城に逃れた。小田氏寝返りの報に、顕信は合戦中の三迫から撤退した。