【藤氏一揆】
一三四一年五月、南朝首班・近衛経忠が諸国の情勢に悩み、吉野を出奔した。
『吉野殿を出しめ給ひ候しか。京都も敵方さらに賞翫申さず候』
(松平結城文書・年月日未詳「北畠親房事書」、岡野友彦「北畠親房」一六七頁)
“近衛が吉野を出奔したという。京都の敵方も、この行動を全く評価していない”
経忠の、わざわざの二度目の出奔の原因は何か。和平であろう。高師冬の分断策による常陸の北畠親房らの孤立。常陸合戦を横目に、足利直義によって整えられていく京。佐々木導誉が皇族に手を出してものうのうと生きる、幕府優勢朝廷劣勢の政権の誕生。
痩せても枯れても藤原一族である経忠の目には、奥羽・関東で抗戦を続ける北畠父子に巻き込まれ、宮方はおろか、両朝が武家に呑まれる未来が見えた。親房を止めねば朝廷が滅ぶ。
転がり込んだ京で北朝の光厳上皇から捨扶持を与えられた経忠は、これにめげず政治工作を始めた。ほどなく、親房は、近衛の使者が関東の各地に出没している噂を捕捉した。
『其の旨趣は、藤氏各々一揆すべし。かつ我が身天下を執るべし。小山を以て坂東管領に定めらるべし』(同)
“その使者は「藤原氏を源流とする諸家(小田・小山・宇都宮・結城ら)で一揆(同盟)を結べ。その武力を背景に近衛が天下をとる。小山を坂東管領に任じる」と触れている”
『一ニハ可被立新田子息歟』(松平結城文書、五月二十五日付、結城修理権大夫宛、法眼宣宗書状、四十九頁)
“一揆の旗頭には、新田義興(義貞の遺児)を立てよ”
小田は、親房が今まさに籠もる城の主である。宇都宮は、下野から奥州勢と合流するために、配下の春日顕国に侵攻させている最中の勢力である。結城は奥州勢の旗頭である。
それ以前に、親房に変わって新田の遺児が立てば、親房の東国戦略は破綻する他ない。
『御身令出京都給候て、如此大様なる勧進、併御物狂之至候歟』(結城家文書、某書状)
“京から使者を遣わし、方々にかような工作をすすめるとは、気でも狂ったか”
親房が思わず漏らした感想である。だが、破壊工作の効力を認めざるを得なかった。
近衛の策謀により、まもなく小田城には内紛の芽が生じた。親房は、この後、新田義興を問い詰めたが、知らぬというのが返事であった。しかし、義興のもとからは不審な者達が若干名追い出されたという。かくして、東国の南朝勢力は疑心暗鬼に陥り、分裂した。
この五月を境に、親房の発する通信からは「御教書」が激減し、私的な「書状」が中心となった。即ち、親房は諸勢力に対し、上位からの指示が出せなくなったのである。