【一進一退】
一三四〇年冬、高師冬が常陸国北部・瓜連城に移ったのは、情勢に窮しての消極的な行動の筈であった。しかし、これには戦略上の目的があった。「佐竹貞義と合流し、小田城(常陸国南部)と奥州の結城親朝の間に楔を打ち込む」である。この動きに、これまで常陸で中立を保っていた大掾氏が幕府方に参じた。大掾氏は、小田氏と共に一三三六年に瓜連城を巡る戦いで佐竹貞義に敗れている。そのため、この程傍観に徹していたが、ついに旗幟を鮮明にしたのである。北畠親房が気付いたとき、常陸の国府は師冬に押さえられた。駒城を巡る戦術で親房に敗れた師冬は、東国を巡る戦略で優位に立とうとしていた。
十二月五日、吉野で後村上天皇を補佐する四条隆資が、東国の情勢に浮つき、結城親朝に鎌倉攻めを命じる無茶な書状を送っている。隆資は吉野の主戦派である。当時、常陸情勢の暗転に伴い、吉野では現地で指揮を執る北畠親房に対する疑義が生じつつあった。吉野と親房。東国の南朝方には、軍事上忌むべき「二本の指揮系統」ができたのである。
十二月十八日、奥州で多賀国府を睨む北畠顕信のもとに、南部から朗報が届いた。
『津軽安藤一族等参御方候之条目出候併御方依被誘仰候如此候殊神妙候』(岩手県中世文書)
“津軽安東一族が御味方についてめでたい。南部殿の工作神妙”
津軽方面で軍事行動を行っていた南部政長がついに後方の安全を確保したのである。
これで南部を南下させることができる。あとは、南部が工藤氏らを討ち破れば、北から多賀国府になだれこめる。一三四一年一月頃、親房は結城親朝を四位に昇進させた。
この年、越前で敗れた脇屋義助が美濃でも敗れ、吉野に移っている。幕府の対南朝戦略は、いよいよ東国に集中しようとしていた。
閏四月、結城親朝が再び多賀国府の南を扼する行動に出た。
『白河城の凶徒等、石河庄村松城に寄せ来る』
(吉川弘文館・伊藤喜良「東国の南北朝動乱」一四一頁、東京大学白川文書)
“結城親朝ら賊軍が、石河庄村松城に攻め寄せてきた”
二十九日、親房は結城に預けた孫娘を、顕信のもとへ送る算段を親朝と立てている。孫娘は、安東貞季のもとに嫁がせる。奥羽北端を騒がせ続けた安東氏が、これで完全な味方となる。
親房は急がねばならなかった。ようやく、奥州に好材料が整いつつある時に、常陸の宮方は瓜連城の高師冬によって孤立しつつある。春日顕国が下野から結城と合流するため、宇都宮氏を圧迫し続けているが、未だ倒れない。このうえは、息子顕信が、一刻も早く南部・葛西らと多賀国府を奪還し、結城を加えた大軍勢が関東に南下するのを待つ他なかった。