【瓜連城】
一三四〇年五月十四日、北朝で暦応雑訴法が裁定された。これをもって、「鎌倉以来の公家法は光厳上皇のもとで完成した」といわれる。但し、この時期、朝廷の判決を執行したのは“幕府”である。足利直義による、中央のお膳立てが完了したと見るべきである。
この年中頃、上杉憲顕(直義派)が鎌倉府執事として再び東国に下向した。
六月二十四日、信濃大徳王寺城で北条時行が挙兵したが、間もなく小笠原貞宗が鎮圧した。
二十九日、後村上天皇が伊予で立ち往生する弟の懐良親王に綸旨した。
①『毎事只令旨を以て計り御下知有るの條、子細有るべからず候』(五條文書)
“九州に渡った後は、いちいち吉野に細かい指示を仰がなくても良い”
②『直奏事、沙汰及ぶべからず』(五條文書)
“官位の推挙についても、勝手にやってくれてよい”
東の北畠親房に認められた権限が、西の九州に向かう懐良親王にも認められたのである。
ところで、この年、九州の幕府方を率いる鎮西大将軍一色範氏は幕府に申請書を提出し、身の窮状を訴えている。それによると、範氏は守護国もなく、所領も十四・五町が一つと二十町が一つ。住むところも、寺に仮住まい。と書いていたそうな。
秋、鎮守府将軍北畠顕信が葛西氏を頼って、常陸経由で奥州石巻に到着し、七月日和山城に入った。顕信は糠部(青森)の南部政長(師行の弟)と連携し、北から多賀国府に迫った。
九月十三日、越前の脇屋義助が斯波高経(直義派)に敗れた。
十月、南奥州の結城親朝が、岩瀬郡鉾月楯に進出し、交戦した。南から多賀国府の揺さぶりに出たのである。これを評する親房の推挙で、翌月、親朝は修理権大夫に任じられた。
―あと一歩―
奥州で南から結城・伊達が、北端から南部・葛西が多賀国府を挟撃する体制ができつつある。
冬、幕府は高師冬に「無勢で攻められない」と泣きつかれ、高師直を東国管領として下向させることが評定で決めかかるが、山門と南都が蜂起したため、延期となった。これを踏まえると、先段の放火騒ぎは、「山門を挑発して蜂起させ、師直を京から動かさない」効果があった事が分かる。これにより直義派は中枢を抑えきる機を逸した。婆娑羅恐るべし。
十一月、追い詰められた高師冬は下総から(南西から)駒城を攻める戦略を放棄した。
『高師冬宇都宮に著すの後、更に威勢なきにより、方々の勢を待つと称して、瓜連を経廻す』
(吉川弘文館・伊藤喜良「東国の南北朝動乱」一三六頁、松平結城文書)
“高師冬は宇都宮にいたが、兵が集まらず、軍を募ると称し、北の瓜連城方面に向かった”