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【脱線三・婆娑羅とは破壊的な創造である】

この頃、一門・譜代でもないのに、足利尊氏から信頼されたのは佐々木導誉(京極の祖)だった。名門近江源氏である導誉は、傍流ながらも、嫡流(六角)の佐々木氏頼を押し退け、権勢を誇っていた。鎌倉時代には得宗北条高時の側に仕え、討幕戦では尊氏と行動を共にし、建武政権では雑訴決断所の奉行人を務めた。そして、中先代の乱では尊氏に協力し(難太平記)、その後も叡山を封鎖して宮方を追い詰めた事は、衆知の事実である。


一三四〇年十月六日、その導誉に関して、ちょっとした事件が起きた。

『白河妙法院宮亮性親王、仙洞御兄弟也、御所焼払云々』(中院一品記・以下同様)

“白河妙法院にある、亮法親王(光厳上皇の弟)の御所が焼き払われた”

『佐々木佐渡大夫判官入道々誉并子息大夫判官秀綱、寄懸彼御所放火、散々致追捕狼藉』

“佐々木導誉と息子の秀綱が、御所に攻め寄せて放火し、神人を捕らえ狼藉したのだ”

寺に伝わる重宝は、あるいは導誉に奪われ、あるいは灰燼に帰したという。後世、このような行動をもって、導誉は「婆娑羅ばさら大名」の典型とされている。

 事件の原因は、次のように記録されている。

『彼秀綱去夕与竹園御坊人、於御所辺有喧嘩意趣其故欤』

“先日、秀綱が、御所近くで寺の者と喧嘩したらしく、その仕返しとしてやったようだ”

妙法院は天台宗(延暦寺系列)の寺で、導誉の根拠地は近江である。先祖代々続く、地元比叡山(山門)との対立が、発火したというのが真相らしい。

 してみると、事の本質は、縄張り争いである。尊氏・直義は導誉を罰しなかった。

『山門衆徒蜂起』

“山門の衆徒が蜂起した”

これに苛立った山門は、まもなく導誉の厳罰を求めて蜂起した。御輿の登場に、さすがの幕府もおされ、結局十二月一三日、導誉を出羽に、秀綱を陸奥に流す事が決まった。

 しかし、導誉が、陸奥に赴いた記録など残っていない。それどころか、遅くとも翌年八月には、平然と畿内に姿を見せ、伊勢の南朝と戦っている。流されたかどうかも怪しいi。


 こうした話だけを採り上げると、導誉は老隗な怪物にしか見えない。

しかし、導誉は、大狸のような外見にも似合ず、繊細な内面を持ち(【そして刑は執行された】参照)、当代随一の文化人であった。黎明期にあった連歌を流行らせ、「乞食の所行」と呼ばれた能楽を庇護し、文化として大成させたのは、この導誉であるii。

 古い貴族達は、伝統を解しつつもそれを越える文化を育てる導誉を心底畏れた。

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