【世界の再編】
先に常陸の戦いの外を見た(【戦場の外の戦】参照)。今度は日本の外を見てみよう。
この頃、元では軍閥抗争が絶えない。皇帝が次々に即位しては廃され、ついには軍閥が台頭し、皇帝はその操り人形と化しつつあった。ここに、南北朝時代の背景が、浮かび上がってくる。「モンゴル帝国の解体と東アジア世界の再編成」である。
思えば、後醍醐天皇が鎌倉幕府を呪詛する時に用いた、「調伏」という手段は仏教によるものである(【関東調伏と御家人復活】参照)。その時の衣装は絵に残され、今日に伝わっているが、それは明らかに、当時の元で流行したチベット仏教の一派の影響を受けたものであった。元の皇帝を混乱に陥らせたものを、日本では後醍醐天皇が、鎌倉幕府を混乱に陥らせるために用いたのである。そう言えば宋学も漢民族が元を倒す時に用いる思想である。
いずれにしろ、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国が衰退期に入ったのである。大陸はまもなく分裂し、各国・各地域に新たな秩序が求められるであろう。
かつて、元が興隆した時、朝廷は持明院統と大覚寺統に分裂した。そして、元が衰退する時、南北朝という新たな段階が始まった。したがって、対外的には、やがて元が滅亡して新たな王朝が誕生する時に、南北朝時代は終焉を迫られる。
さて、元を取り巻く各国で新たな秩序が模索される中、さしあたり日本も新たな秩序が必要であった。即ち、「日本とは何か、いかにして治めるべきか」という事への再定義が求められたのである。要は国家体制(Constitution)が問われたのである。
北畠親房は十四歳から朝廷に仕えた、骨の髄までの貴族である。親房の答えは、「日本は天孫(帝)を頂き誕生した、朝廷が治めるべき国」であった。こう纏めると、先の段から紹介をしている「神皇正統記」の記述と相まって、親房が危ない人に見えるが。一理はある。少なくとも、戦乱絶えない「朝廷と幕府の二重統治」に比べれば、「朝廷による統一した政権」の方が合理的だろう。現に二十一世紀の日本は、前者でなく後者である。
その論は、一見復古主義的に見えて、その実、最新の国際情勢を見据えたものであった。
そこで、親房の考える「統治」について触れたい。一つは、何故朝廷が衰退したかである。もちろん官位の乱れもある。しかし、親房に言わせれば、それに並ぶ問題があった。
『中古となりて庄園おほくたてられ、不輸の所いできしより乱国とはなれり』(神皇正統記)
“平安時代の中頃を過ぎて、荘園が多くたてられ、税を取り立てる事ができない地ができたから乱国となった”
荘園制による、私領の誕生である。