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【戦場からの手紙4】

一三四〇年初頭、駒城を巡る戦いは続いていた。

『身しに候とも、大しやう、又このいきのの人〱かやうに候へハ』

(「日野市史 史料集 高幡不動胎内文書編」百八頁・高幡不動胎内文書 一山内経之書状)

“わしが死んでも、三河殿がおる。「一揆」(在地近隣の同志)の方々もかようにおる”

所詮、兵は消耗品である。

そう言わざるを得ないのは故人がこのような文書を残すからだろう。

駒城を巡る戦いの意味。天下から見れば所詮は局地戦。

前線に立つ山内経之もそれを悟りつつあった。だからこそ、経之の文書の中に、今「一揆」という言葉が現れた。「一揆」とは、「生死を共にして戦乱に立ち向かう」という誓約の事である。経之の身に万一の事があった場合、近隣の領主らが山内家の所領を守る。近隣領主に同様の事が起きた場合、山内家がその援護に回る。そういう盟約である。


「幕府も南朝も我らを守らぬ。我らの身は我らで守るべし。」そう聞いて何かを思い出さないだろうか。そう、これは北畠顕家と幕府軍の決戦に巻き込まれた美濃の農民達が始めた事と同じである(【脱線一・ある村の決意】参照)。為政者らが果てのない戦を行うのを目の当たりにした南北朝の民は、それぞれが、生きるために考えたのである。

その答えが、「農民が自衛を行う庄(集落)」の誕生であり、「一地域の領主達が団結した一揆」の結成であった。かつて、後嵯峨上皇が徳政(土地の返還)を掲げた鎌倉時代中期、現在の市町村の原型が誕生した事には触れた(【新たな時代】参照)。おそらく、農民や領主達の動きはこの流れの中にある。鎌倉時代に誕生したこれら「地方」の原型は、戦乱の中で衰え滅びるのではなく、育ち、自らの足で歩みを始めたのである。

 庄や一揆は、こののちも、南北朝の動乱を横目に成長を続ける。

 その動きは年を追うごとに室町幕府への影響を強め、のちには戦国大名らの興隆にも係わってくるのであるが、それはまたのちの話である。


 死ねば三河殿が褒めてくれる。それが何であろうか。

恐らくは、それが戦場に向かう経之の本音であろう。

しかし、ここは敢えて駒城戦で三河殿のために死力を尽くして戦い、幕府の山内家に対する心証を得ておく。これは領主としての「中央」への外交である。

その一方で、経之は国元の家族へ手紙を書き続けた。それは、経之亡き後も家族が生き延びるための方策を説くものであった。

『返々心もとなく存候、とのいしつへく候ハん物をハ、ひやくしやうともにても候へ、すかし候て、のほり候まても、よく〱とのいさせ給へく候』(百十頁)

“留守宅が気掛かりでならぬ。宿直をせねばならんのだから、百姓達でも良いから、宥めすかして、わしが戻るまでの間、宿直をしてもらえ”

お気付きだろうか。経之の領主としての、農民政策が転換されている。

以前、経之は「田畑を差し押さえてでも兵糧を集めよ」と領地に指示していた。しかし、これはおそらく農民らから様々な形の抵抗を受け、捗々しく進まなかったのだろう。

だから、経之は馬を借り、兜を借りて戦うほかなかった。経之はここで領内の農民らの力を実感したのである。

経之は、自衛を始めた領内の農民らとの協調に舵を切った。

『るすにかい〱しき物々一人も候はぬこそ、返々心もとなくおほえて候』(百十二頁)

“留守の頼りになる者は一人も残していない、そなたらが案じられてならぬ”

だから、農民らをただ抑えるのではなく、運命共同体となれ。

 それが、領地に残した家族に説く「領内」安定の策であった。


 戦場は過酷さを増していた。

『□郎二郎めうたれ候』(百十六頁)

“□郎二郎が討たれてしまった”

経之は戦場の中で、死に追い込まれつつあった。

だが、事ここに至るまでに、経之は為すべき事をすべて済ませていたのではないか。

―俺の死は無駄死にではない―

『さりなからこれの事ハ、かねてよりおもひまうけたる事にて候』(百十二頁)

“さりながら、今わしの身に起きておる事など、兼ねて分かっていた事である”

『何事よりもおとなしく、なに事もはゝこにも申あハせて、ひやくしやうともの事もあまりニふさたニて候、よく〱はからハせ給へく候』(百十二~百十三頁)

“何事も大人しく、何事も母者に申し合わせ、百姓どもの事もよくよく考え対処せよ“

『こんとのかせんニハ、いき候ハん事もあるへしとおほえす候』(百十八頁)

“今度の合戦には、生き長らえる事があるとも思えぬ”


 五月二十七日、幕府軍は駒城を一時陥落させる。その時、経之の消息は絶えていた。

経之の手紙は、一九二〇年代、日野市の高幡不動不動明王坐像から見つけ出された。これは手紙を受けた経之の家族が、戦乱を生き延び、財を蓄えた証左である。

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